この映画は、2018年にリリースされたデヴィッド・バーンのアルバム「American Utopia」に基づくブロードウェイ公演の記録ということで、2019年のことだったらしい。あやうくCOVID-19禍に呑み込まれるところだったが、こうやってこのステキな公演が記録されたということはとても喜ばしい。
髪も白くなったデヴィッド・バーンは時にどこかケーリー・グラントみたいな容貌でもあり、そして歌唱力は以前よりも高くなっているようにも思えた。スーツ姿ではだしで舞台を精力的に動き回り、まさに「主役」という貫禄ではあった(自分的には、もっといつもの「変なダンス」を見せてくれればなあ、とは思ったが)。
監督はスパイク・リーで、ちょっと意外な人選だとも思ったのだけれども、スパイク・リーは音楽にも造詣が深いわけだし、また、この舞台の「人種を超越した構成」や、デヴィッド・バーンの主張をもよく活かした演出だったろうと思う。それはこの作品の中で単に舞台を記録したということを超えた、「Hell You Talmbout」のシーンであらわになっただろう。
さて、この作品は「ひとつの舞台」を、そのオープニングからエンディングまでをきっちりと記録したという意味でも、デヴィッド・バーンのTalking Headsの、ジョナサン・デミ監督による大傑作ライヴ記録映像「Stop Making Sense」(1984)を思い出さない方がおかしいぐらいなのだけれども、観ていても「相当に<Stop Making Sense>を意識しているよな」と思わざるを得ない。
ただやはり、ジョナサン・デミの「Stop Making Sense」はTalking Heads~デヴィッド・バーンを被写体として、「<ロック>とは何か?、その進化とは?」というような視点も持ち合わせていたと思うのだけれども、この『アメリカン・ユートピア』はあくまでもデヴィッド・バーンの「ショー」であり、11人のバック・ミュージシャンはあくまでもバック・ミュージシャンであり、そこにはティナ・ウエイマスもジェリー・ハリソンも、クリス・フランツもいないのだ。
観ていて、そのバック・ミュージシャンにパーカッション奏者が多数いることにちょっと驚きもしたのだけれども、そのことは「Stop Making Sense」でもバンド外のゲスト・ミュージシャン(特にリズムセクションに)が多数加わって、あの「I Zimbra」を演ったことを思い出し、ここでもまさにひとつのクライマックスとして「I Zimbra」を演るわけで、「ああ、この曲のためのバック・ミュージシャンだったか」とも思うのだった。
ちょっと脱線して書けば、この舞台でデヴィッド・バーンがダダイストの(「ダダイスト」というだけでは収まらない人だが)クルト・シュヴィッタースの「音響詩」をちょっと紹介し、そのあとに、この「I Zimbra」の詩はやはりダダイストのフーゴー・バルによるものだと語ってから「I Zimbra」を演るのだ。
わたしはもう、「I Zimbra」という曲はそれこそ「大好き」なのだが、今日の今日まで、この曲の詩がフーゴー・バルによるものだとは知らずにいた。わたしは以前から、ダダイズムとパンク・ロックとの「親和性」、「共振」ということは考えていたのだが、こんなところにもそんな「例証」があったのだった。
わたしはTalking Headsのファンだったとはいえ、そこまでに彼ら彼女らの曲をすべて知っているということでもないのだけれども、「これを演らなくっちゃねえ!」という曲はだいたい全部演ってくれたのでうれしかった。それで、観ていて「このアンコールは<Road to Nowhere>だろうな」と予測し、それが的中したのがうれしかった。