ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『若い藝術家の肖像』ジェイムズ・ジョイス:著 丸谷才一:訳

 ジェイムズ・ジョイスが1916年に発表した作品。『ダブリンの人びと』の2年後の作品になる。ジョイスアイルランド(ダブリン)を出るまでの「自伝的小説」で、この小説では、主人公のスティーヴン・ディーダラスはどう読んでもジェイムズ・ジョイスの「分身」だろう。いちおう、このスティーヴン・ディーダラスは後の『ユリシーズ』にも重要な役割で登場してくるけれども、そちらではほとんど「スティーヴン・ディーダラス=ジェイムズ・ジョイス」という感じでもなかった。

 この小説は5章からなり、主人公の幼少期から寄宿学校時代、そして宗教の道を捨てて大陸へと旅立とうとする決意までが描かれている。『ユリシーズ』でひとつの作品の基調となった「様々な文体の試み」もその萌芽があり、幼少期は幼い子どもらしい文体が選ばれ、主人公の成長にともなって文体も変化する。さらに第3章では延々と説教師の説教がそのまま何十ページもつづいたりもする。

 実はわたしはこの『若い藝術家の肖像』を読むのに並行して、リチャード・エルマンによる『ジェイムズ・ジョイス伝』を読んでいて、ちょうど読んでいた部分がまさに『若き藝術家の肖像』の時代と重なってしまい、読んでいて、記憶の中でどっちがどっちだかわからなくなってしまったりした。さらに並行して読んでいるピンチョンの『メイスン&ディクスン』にも、ところどころアイルランド関係の記述があり、これまた頭のなかでごっちゃになってしまうのであった。
 まあそのことは自分の頭のなかで整理整頓すればいいことだけれども、やはり読後感にはけっこう大きな影響を受けてしまったことだろう。

 一篇の小説として、この『若い藝術家の肖像』を読んでみれば、これはまさに「若き主人公の精神的成長」を描く作品として、ドイツ文学に顕著であった「教養小説(ビルドゥングス・ロマン)」の特質を引きつぐものではないかと思う。
 そういうところで、わたしは第1章、第2章はかなり面白く読んだのだけれども、これが第3章になると思いっきり「信仰」の問題へとシフトし、先に書いたように説教師の説教がそのまま長々と引用されたりして、正直言って今は宗教の問題(特に信仰の問題)にまるで興味のないわたしとしては、このあたりから読みあぐねてしまったわけである。

 このあとは「宗教に生きる」ことを拒否した主人公が、これまた友人を相手に長々と、トマス・アクィナスから影響を受けたという自分の「美学」を語る場面がある。このあたり、正直言って小説的なプロットの面白さではなく、友人の存在をダシに使っての自分の理論の吐露であり、しかもここで語られる「美学」は別に目新しいものでもない「旧」的なものではあるだろうし、読んでいて飽き飽きしてしまうのだった。

 せっかく、前に読んだ『ダブリンの人びと』が短篇小説の傑作、という読後感を受けていたものだから期待して読んだのだけれども、まあわたしには、『ユリシーズ』との関係で読んでおいてもいいよね、という程度の小説ではあった。
 この小説を読んでいて、やはりひとりの青年が文学者として成長して行く過程を描いた、ナボコフの『賜物』を思い浮かべたりもしたけれども、わたしの中では『賜物』の方がはるかに読みごたえのあった書物ではあったし、この『若い藝術家の肖像』を読み終えて、またナボコフの『賜物』を読み直したくなってしまったのだった。

 最後にちょっとだけ、巻末の翻訳者丸谷才一氏による「空を飛ぶのは血筋のせいさ」という(なかなかに長い)エッセイについて書いておきたいのだけれども、ひとことで言えば、こういうつまらない「知的スノビズム」にあふれた文章にはまったく読む価値はないだろうし、若い読者が「自己鍛錬」のためとかでこの小説を読み、そのさいごにこの文庫本巻末のこのエッセイを読んでしまい、妙なスノビズムの影響を受けなければいいのだがと思うばかりである。
 というか、今になってみれば、岩波文庫の大澤正佳訳『若い芸術家の肖像』で読めばよかったかも。なぜかこの文庫本、Amazonで「ジョイス」で検索しても出て来ないものだから。