ガブリエル・バーンは、決して演技の上手い俳優さんではないけれども、例えばコーエン兄弟の『ミラーズ・クロッシング』でのように、何もやらなくても(立っているだけで)ひとつの「味わい」をあらわしてくれる俳優さんだと思う。わたしの好きな俳優さんだ。
この作品では、そのガブリエル・バーンが、シャーロット・ランプリングとガチで組み合う。
シャーロット・ランプリングという俳優さんがまたわたしには上手い人なのかどうかわからないというか、ぜったい「雰囲気」の人だろうとは思う。
ここで、こういっちゃ何だけれども、ガブリエル・バーンがすっごい上手い性格俳優とかいうんだったら、「年配の女優さんによるファム・ファタールもの」という新機軸で、またちがう見せ方もできた映画かもしれない。いやいや、そもそもこの監督さんには悪いけれども、この監督さんはそんな力量はない。ちょっと毛色の違ったミステリーを撮ろうというのはわかるけれども、冒頭から観客をミスリードに誘おうとする「わざとらしい」演出は、はっきり言って底が浅い。
例えば、ここでシャーロット・ランプリングは「心神喪失」の人として、自分のやったことをわかっていない(記憶していない)人なのだけれども、映画の中で彼女にまともにからむのがガブリエル・バーンだけみたいなものなので、彼女の「心神喪失」に厚みがない(彼女の「娘」との絡みが、致命的に浅いのだ)。
ガブリエル・バーンの側にしても、ここで正常な判断の出来る同僚とかがいて、「あんた、おかしいよ」みたいな助言があるといい。そうすればもっと、この作品はヒッチコックにも近づいたことだったろう。だいたい、ラストでのガブリエル・バーンは「まとも」すぎる。こういう心理ドラマでは、男がどこで現実に目覚めるかということはポイントなのだけれども、そういうポイントもないままに彼は「正気」になってしまうのだ(あるいは、彼はずっと「正気」だったとでも?)。
全体にけっきょく、映画の中で描かれた主役二人以外の登場人物が皆、あまりに浅すぎた気がする。残念。
逆に、どこまでもこの主演二人の「雰囲気」に頼りきって、ストーリー展開なんか「二の次」にしちゃっても面白かったとも思うけれども。
観終わった後に知ったのだが、この作品を監督したバーナビー・サウスコームという人は、シャーロット・ランプリングの実の息子さんなのだということだった。
なんか、俳優である自分のお母さんに自分の作品に出てもらい、それを演出するというのはどういう感じなんだろうかね。映画人としてのキャリアはぜ~ったいにお母さんの方が「雲の上の存在」みたいなものであり、そりゃあ委縮するだろう。そこでおそらくはお母さんが息子に「あなた、大丈夫よ。自信をもっておやりなさい」とか言うわけだろうし、いろいろとアドヴァイスもしたのだろうか。またはまったく逆に、「わたしは女優よ。あなた、わたしを演出してみなさい」みたいに突っぱねていたのだろうか。まあどうでもいいけれども。