ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『レヴェナント:蘇えりし者』(2015) エマニュエル・ルベツキ:撮影 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ:脚本・監督

 この映画でレオナルド・ディカプリオが演じるヒュー・グラスという男は実在の人物で、Wikipediaにもこの人物の項目があるのだけれども、これを読むと映画に描かれた以前のことは不明なことが多いようだ。しかし映画に描かれた「ハイイログマに襲われてひん死の重傷を負い、仲間に見捨てられたものの一人雪原から生還した」というのは有名な実話なのだという(グラスが息子のホークと一隊に加わっていて、ホークはフィッツジェラルドに殺害されたというのは、この映画の「創作」のようだ)。そのあと映画のように自分を見捨てた2人を追って復讐しようとしたようだが、その2人のひとり、ブリッジャーはまだ若くてフィッツジェラルドの言いなりになった可能性があると思い、見逃したという(映画では隊長がこのような判断をして放免しているが)。もうひとりのフィッツジェラルドWikipediaによるとフィッツパトリック)のことも追い詰め、彼に盗まれたライフル銃を取り戻したが、そのとき陸軍に入隊していたフィッツパトリックを殺した場合の刑罰を考え、報復は断念したと伝わっているらしい。

 見捨てられたあとのグラスは6週間草の実と根を食べて飢えをしのぎ、映画のようにオオカミが襲ったバイソンの肉を食べたり、先住民と出会って食べ物と武器をもらったりしたらしい。Wikipediaを読むと、彼にはこの映画で描かれた経緯のあとにもすっごい冒険譚があるみたいだが、映画で描かれたように先住民のある部族と親しくし、じっさいに先住民の妻をめとってもいたらしい。

 ついでに、ブリッジャーという人物も実在でWikipediaに項目があり、それによるとけっこうその後長寿を全うされたようで、グラスのように先住民と親しくして、先住民部族の酋長の娘と結婚したらしい。ただ、彼の「思い出話」にはウソが多く、「ホラ話の話し手」としてよく知られているという。しかしこの映画のグラスの経歴には、このブリッジャーの経歴が加味されているようではあった。

 この映画でフィッツジェラルドを演じていたのはトム・ハーディで、ブリッジャーはウィル・ポールターという俳優が演じている。わたしはこのウィル・ポールターという役者の顔は記憶していて、彼のフィルモグラフィーを見るとわたしが観たことがあるのは『デトロイト』と『ミッドサマー』とで、おそらくは『ミッドサマー』に出演していたのでその顔を記憶していたのではないかと思う。

 この作品の監督はメキシコ出身のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥで、わたしはそ~んなに意識してはいない監督だったが、デビュー作の『アモーレス・ぺロス』や菊地凛子の出演した『バベル』、そしてこの作品の前年に評判になった『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』などのことはかつて観たことはある。記憶は失せてしまっているが、どれもまた観てみたいと思っている映画だ。

 そしてわたし的にはこの作品でいっちばんスゴいと思ったのは、エマニュエル・ルベツキによる撮影で、わたしはこ~んなにスゴい映像の映画を観た記憶はない。
 エマニュエル・ルベツキという人はやはりメキシコ出身で、ティム・バートンの『スリーピー・ホロウ』やコーエン兄弟の『バーン・アフター・リーディング』などの撮影も担当していたらしいけれども、わたし的には特に、同じくメキシコの映画監督アルフォンソ・キュアロンによる『ゼロ・グラビティ』の撮影が、「どうやって撮ったのよ?」って印象に残っている。その『ゼロ・グラビティ』と先に挙げたイニャリトゥ監督の『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』と、そしてこの作品と、何とアカデミー賞で3年連続して撮影賞を受賞したのだという。まあアカデミー賞を受賞したからスゴいというのでもないけれども、やはり多くの人が彼の撮影に圧倒されているということだろう。

 この作品では、もちろん厳寒の冬のだだっ広い草原とかでの風景、光の捉え方も素晴らしいのだけれども、わたしは映画冒頭の、グラスら狩人たちが先住民に襲われるシーンに圧倒されてしまった。これは当然ステディカムでの撮影なのだろうが、けっこう長めのワンカット撮影の連続の中で自在にカメラを移動させ、流れる川の中にカメラが移動して行ったりしたときには、「カメラマンは大丈夫なのか?」って心配してしまった(もちろん浅瀬の川ではあるが)。カメラを360度振り回すようなことは平気でやるし、あれだけ俳優たちが入り乱れている中でどうやってああいう映像を残せるのか。
 その「ハイイログマに襲われるシーン」も強烈で、そりゃあ後処理でCGを駆使しての映像だろうけれども(だからこそ脅威でもある)、以前『ゼロ・グラビティ』で撮影出来っこない宇宙空間を撮影したエマニュエル・ルベツキだけに、後処理のスゴさもあるけれどもあきれてしまった。まああれだけクマに嚙みつかれて振り回されたら、普通死ぬよな。
 終盤の、グラスとフィッツジェラルドとの格闘シーンにしても、カメラは取っ組み合いをする2人の俳優にあまりにも近接していて、「そりゃあ俳優たちといっしょにカメラマンも格闘やってるんじゃないの?」って思ってしまったものだった。

 イニャリトゥ監督の演出もまた重厚で、特にグラスがたった一人で雪原をさまようさまをじっくりと撮り、「それはあまりに長い」と感じた人も多かったようだけれども、グラスが長い時を経て傷を癒し、まさに「蘇える」ということを表現するには必要な長さだっただろう。それこそがグラスの「蘇えり」なのだ。長い彷徨いのあいだに出会う動物や先住民らとのドラマもインパクトあり、この時代(19世紀初頭)の北米がまだまだこのような世界であったこと、西欧人は「よそ者」であったことを示していただろうか(印象的な短いショット、膨大な数のバイソンの頭蓋骨のピラミッドの映像が「強烈」だった)。

 もちろん、レオナルド・ディカプリオの存在感こそがこの作品をつくっているところもあり、わたしゃ昨日『ディパーテッド』を観るまでは「ディカプリオな~んて観たくないね!」って気もちだったけれども、この作品のディカプリオはスゴかったね。そう思う。