ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ロリータ』(1955) ウラジーミル・ナボコフ:著 若島正:訳

 前にこの『ロリータ』を読んだのはもう6年も前で、それから今までのあいだにわたしは記憶障害も起こしていて、『ロリータ』の内容は誰もが読まなくても知っているぐらいのことしかわかっていなかった。つまり、ほとんど「初読」という気分で読んだわけだが。

 この小説はその段階ごとに、まったく異なる展開をみせるわけで、それを大きく分ければ

 〇ジョン・レイ・ジュニア博士による「序」
 〇書き手のハンバート・ハンバート(以下H・H)の少年期のリヴィエラ時代(アナベルとの出会い)
 〇成人したH・Hがアメリカに渡り、ドロレス・ヘイズ(ロリータ)に出会う。日記を書く
 〇H・Hがロリータの母シャーロットと結婚し、ロリータへの欲望に悶々とする段階
 〇H・Hがついにロリータとの関係を持ち、ロリータの母のシャーロットが事故死する
 〇H・Hはサマーキャンプで合宿していたロリータを引き取る
 〇H・Hとロリータとのモーテル巡りの旅
 〇ビアズリーへの定住
 〇ロリータの失踪と、H・Hのリタとの暮らし
 〇ロリータとの再会
 〇H・Hによるクィルティ殺害

 ‥‥こ~んな感じだろうか。それぞれの段落で、書き手のH・Hの文章、彼の関心事には大きな変化が見られるだろう。

 正直言って、このハンバート・ハンバートという「欲望の塊り」のような男の書く文章には、特に前半では辟易してしまったし、ナボコフらしい機知に富んだユニークな比喩とかにあふれた文章だとはいえ、「この男、クソじゃん!」としか思えなかった(その考えは小説終盤には改められるのだけれども)。
 先に書いておくと、訳者の若島正氏の「訳者あとがき」によると「H・Hがクィルティを殺害する場面はH・Hの妄想で、実は殺人は行われていないのではないか」とする「修正派」が存在するらしいのだが、たしかにH・Hによるクィルティ殺害場面、いいかげん非現実なまでにクィルティはおっ死なないし、ここだけそこまでにないスラップスティックな展開になっている。このことは、今のわたしの中ではキューブリック映画のイメージによるものも大きいが(というか、ここにはもう一つ、重大なトリックが隠されていたのかもしれないが)。
 つまりそのように「クィルティ殺し」が虚偽ならば、このハンバート・ハンバートという男、「自分が書き手だ」ということを利用して、自分の都合のいいような「虚偽」をもっともっと書いているのではないか、ということになるが、そういうことをわたしも、もっと早い段階で思っていた。
 つまり、ハンバート・ハンバートによれば、彼はすっごいハンサムないい男で、たいていの女性は彼にうっとりしてしまうのだという。そんな、「それはうぬぼれもいいところだろう」というような記述を信じていいものだろうか?ということを考えるのだった。しかしこの件はロリータの母のシャーロットもH・Hに惚れたわけだし、ロリータにしてもH・Hのことを「彼女の好きな流行歌手か映画俳優に似ている」と思っていたようだし、そのあともたしかに多くの女性がH・Hに好感を持っていた様子も書かれていて、そういうことがぜ~んぶH・Hの書いたウソとは考えにくくなる。よって、H・Hがけっこうハンサムないい男だったということは、こりゃあ認めざるを得ないかな~、とは思うことになったのだった。
 しかしそれでもなお、途中で思った「この男、クソじゃん!」ということと合わせて考えても、どうもこのH・Hの書いた手記というもの、「胡散臭い」わけである。いわゆる「信用ならない書き手」による作品、という考えが導き出されるわけだ。
 あと、終盤にH・Hはシャーロットの死にふれて、「私はもっとうまくやったわけだ」と、あたかもH・Hがシャーロットを殺したようなことが書かれているが、まあたしかにシャーロットの死はH・Hが殺したようなものだったとはいえ、「ひょっとしたらH・Hが計画して殺した?」と、その計画性を疑わせるようなことも言っている。どうなのか?

 ここでちょっと脱線して、ナボコフの過去のヨーロッパ時代の作品について考えてみると、まず『絶望』(1936)という作品が思い出される。この『絶望』で、主人公の男は「自分に瓜二つな」浮浪者と出会い、彼を使った完全犯罪を計画するわけだが、ラストで実はその浮浪者は主人公にこれっぽっちも似てはいないことがわかるのだ。この作品も主人公の視点からのみ書かれているので、読者は「そうなんだ、その浮浪者は主人公にそっくりなんだ」と思い込んで読み進めるしかない。まさに「信用ならない書き手」だったわけだ。
 もうひとつ、そういう例を挙げておくならば、『目』(1930)という中編小説がある。この作品もまた主人公の一人称で書かれているのだが、主人公は自分の視点で語られるストーリーの中に、自分自身のことを他人のように書き進めるのだが(実は主人公はとんでもないゲス野郎なのだが)、注意深く読んでいれば、読者はその「他人のように書かれた」男が、実は「語り手」だと洞察できる仕組みになっているのだった(さらにこのあとのナボコフの『淡い焔』にしても、「信用ならない注釈者」というのが登場して来る)。

 そういう、「信頼できない書き手」というのはナボコフにとっては「得意技」であって、この『ロリータ』の書き手のH・Hの書くことも、そのまんま信じて読むことにはためらわせられるものがある。
 そのことはこの『ロリータ』という作品の「本質」ではなく、随意的なものではないかと思われるかもしれないが、いや、そういうことをストーリーの中に紛れ込ませて書くことにこそ、(実際の作者である)ナボコフの才能があるわけだろう。
 そんな「信頼できない書き手」であろうとも、その中に「真実」を書き残しているがゆえに、読むものに(予想外の?)感銘を与えるわけでもある。特に、ロリータの失踪後、そしてH・Hがそんなロリータと再会後、今度こそほんとうにロリータと訣別してからのH・Hの悔恨、そしてロリータへの愛情の吐露は胸迫るものがあり、そこまで読んでみてその時点で、H・Hのそれまでの記述の「ごまかし」が見えてくるのではないだろうか。今わたしは猛烈に、そんなH・Hの「ごまかし」を探るために、もう一度この『ロリータ』を読み返したいと思っているのだが。

 今の時点で言えることは、このH・Hという男がいかに「欲望原理」だけで行動した卑劣漢だったか、ということであり、「ロリータを愛してる」と言いながらも、一度だってロリータを「ひとりの女性」として見ていなくって、ただただ「欲望のはけ口」としていたのではないかということで、それがロリータを失ったときに初めて、自分の中のロリータへの愛情をしっかりと見つめるようになった、ということに、読んでいたわたしも泣けるのだった(しかし、そのハンバート・ハンバートの悔恨もまた、「虚偽」だったとしたら???)。

 もうひとつ書いておけば、この作品にはハンバート・ハンバートの眼を借りながら、ウラジーミル・ナボコフ自身が見た1940年代後半のアメリカの風俗、風景も、あるときは皮肉を込めながら、あるときはあきれながらも書かれているわけで、そういうアメリカの風景を読んでいくのも楽しい体験だった。こういう描写は、ナボコフが妻のヴェーラと共にじっさいに「展翅類採集」のために、アメリカ国内の膨大な距離を車で移動した体験が活かされているのだろう。

 もう一回読めば、また違う感想も書けるだろう。まだまだ、「ドッペルゲンガー」のこととか、さまざまな「隠し技」のある作品ではあろう。