ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ロリータ、ロリータ、ロリータ』(2007) 若島正:著

 日本における、ナボコフの『ロリータ』翻訳の決定版を出された若島正氏による、いわば「翻訳者の視点から語る『ロリータ』論」という本、なのだが、いわゆる「作品論」というのではなく、「言語の魔術師」たるナボコフの、その『ロリータ』の中にちりばめられた「言葉の罠」とでもいうものを、あたかも「謎解き」のように解いていくという本。
 そんなものは「作品論」ではないではないか、というものではなく、そのように解いていくことが自然とそのままが『ロリータ』論になっている、というもの。『ロリータ』とはそういう作品であり、ナボコフとはそういう作家なのである。
 特に、『ロリータ』内の「時間」のアナクロニズム、という問題はなかなかに意識しづらい問題というか、読んでも「そうなのか」と興味深くも面白かった。

 多くの問題は、この小説が本文手記の書き手であるハンバート・ハンバートのものとして読むことと、「ハンバート・ハンバートとはナボコフが創作した存在」ということの「分化」から来るもののようではあり、わたしとて『ロリータ』を読んだときに、わたしなりにその問題にはぶつかっていた。そこにはハンバート・ハンバートを「信頼できない語り手」として読み、「いったいどこまでを信頼すればいいのか?」という問題があるわけで、この「手記」を書いているときに、書き手とされるハンバート・ハンバートとして、「真実」を書いているわけではないのではないか?という疑念であったりする。
 例えばこの本で問題にされている、終盤の一文「二人の死んだ女性を結びつける、いわば念入りなヘーゲルジンテーゼといったところか」という文での、その「二人の死んだ女性」とは誰か?ということにわたしも頭を悩ませたものだった。

 そういう問題を考え始めると、ハンバート・ハンバートという「書き手」は、いちおう彼による「クィルティ殺害」を経ておそらくは逮捕収監されたあと、公判を控えて陪審員らに読んでもらうためにこの「手記」を書いたわけで(作品中に何度も「陪審員の皆さん!」という呼びかけがある)、つまり第一ページ目を書き始めたときにはすでに、その後にロリータとの別れがあること、クィルティを殺したこと(これが「真実」なのかどうかに疑問を呈する読み方もあるというが)などの「できごとの全貌」を知っていたことになる。
 そう考えると、その「手記」の展開は、前半からずっとドロレス・ヘイズのことを自分の欲望の対象としてしかみていなかったのが、終盤に彼女と再会したあとにはじめて、彼女への愛に気づいたということになっているわけだが、しかし彼はこの本の終盤でロリータへの「ほんとうの愛情」を感じていたわけで、つまりこの「手記」を書き始めたとき、そのときにもロリータ=ドロレス・ヘイズへの強い愛情を抱いていたはずであろう。ならば彼の書いたこの「手記」で、さいしょのページから悔恨に満ちた書き方をせず、なぜ自らを「欲望に囚われたゲス男」として書いたのか、ということになってしまうし、これでは、公判を前にして陪審員らに自分を<悔恨した男>と見せられないではないか、と思ってしまう。

 まあそのようにさいしょっから悔恨をにじませて書いていたら「ぜ~んぜん違う」作品になってしまっていただろうから、この『ロリータ』のように時系列に沿って、「あとからの悔恨」を交えずに、そのときの自分の心情を忠実に思い出して書いたからこその、この『ロリータ』ではあるわけだけれども、そこにはやはりじっさいの作者のナボコフの、「だってオレは<文学作品>を書いてるんだぜ」という意識が入り込んでいるわけだ。そういう、ハンバート・ハンバートという(ナボコフの生み出した)存在と、ウラジーミル・ナボコフという稀有の作家との「バランス」というのか、微妙な混在の仕方が問題になってくるわけだ。すべてはそこから始まっている。

 なんだか、この『ロリータ、ロリータ、ロリータ』と言う本のことなど書かずに、また自分の『ロリータ』の感想を書き始めてしまった気がする。
 どちらにせよわたしは近いうちに『ロリータ』は再読しようと思っているし、そのときにこの若島正氏の本に書かれていたことは影響してくることだろう。
 ただ、わたしは「『ロリータ』については若島正氏がこ~んなことを書いていたんだ」と、彼の書いたことを盲従したくはないわけで、あくまでも自分で読んでその「謎」を解明したいとは思っている。
 そういう意味で、ナボコフの作品にはりめぐらされた「騙り」「二重露出」「言葉遊び」などについて、この本で教えられたこと(ヒント)は大きかったとは思う(そのことは「大きなヒントをいただいた」ということで、「盲従」ではないだろう)。