ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2020-12-14(Mon)

 ニェネントが空に向かって咆哮するという、グッドタイミングな写真が撮れた。いや事実は「咆哮」などしているのではなく、「大きなあくび」をしているところなのだが、神社で狛犬と向かい合って口を開け、「阿」のポーズを取る獅子をも思わせられるところがある(気になって調べたけれども、神社などの「阿」のポーズを取る獅子は、ここまで大口を開けて上を向いたりしていないようだった)。

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 今日は仕事の帰りに「野良ネコ通り」を歩き、草むらにすわっていた「ヒゲ殿下」に会うことができた。丸くまるまっていて、やはり寒そうにしているように見える。これからどんどん寒さが増す日々になるけれども、また暖かい日が来るまで、しっかり生き延びてほしいと思った(わたしは何もしてあげられないけれども)。

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 大きな雲が空をおおっていたけれども、ときどき太陽が雲を避けて顔を出し、そういうときには陽射しが暖かく感じられるのだった。

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 帰宅して昼食(今日は納豆)を終えて落ち着いてから、「GYAO!」で配信されている熊切和嘉監督の『私の男』を観始めた。けっこう気に入っている二階堂ふみの主演だし、音楽がジム・オルークということもあって観てみたのだが、わたしには原作が桜庭一樹というのは気に入らない。
 桜庭一樹は去年だったか、ナボコフの『ロリータ』についてのコラムを書いていて、ちょうど同時期に他の批評家だか翻訳家だかが『ロリータ』について否定的なことも書いていて、その二つがいっしょになって印象に残っているのだけれども、まあ簡単に言えば桜庭一樹の『ロリータ』読解は非常に稚拙な(つたない)誤読であって、「ちゃんと読めよ!」とは思ったものだった。
 その桜庭一樹のコラムは今でもネット上で読めたので再読したが、「より弱い者への支配と搾取」と題するそのコラムでの『ロリータ』への<感想>はつまり、「わたしは本書を読んで、移住者が身寄りのない少女を、つまり、弱いものがさらに弱いものを、支配し搾取する構図に、現代性を見るように思った」ということに要約されるのだ。
 ちょっとこういうことには、ナボコフのファンとしてキチンと書いておきたいのだけれども、まず主人公のハンバート・ハンバートはたしかにフランスで生まれてアメリカに渡った「移住者」ではあるけれども、まったく全然、「弱いもの」と言われるような存在ではない。金もあり教養もあり、金銭面で苦労もせず自由気ままに生きながら、アメリカの<庶民>をどこかで小バカにしているようなところがあり、彼の中にはどこを切り取っても「弱さ」というものはないのである(精神衰弱で一年以上サナトリウムで療養したことはあったが)。ここで「移住者」=弱者と捉えるのは、読み手がこの『ロリータ』をハンバート・ハンバートという小説内の架空の語り手からはみ出して、著者のウラジーミル・ナボコフの「亡命者」としての苦労を読み取っているからではないのか。「移住者」=「亡命者」という誤解があるし、ここにもハンバート・ハンバートウラジーミル・ナボコフという、大きな「誤読」が含まれているのではないだろうか。
 もうひとつの「大きな誤読」は、「弱いものがさらに弱いものを、支配し搾取する構図」というとき、「果たしてドロレス・ヘイズ(=ロリータ)をほんとうに支配したのは誰か」ということを、決定的に読みそこなっているのだ。ハンバート・ハンバートがドロレス・ヘイズの<人生>を蹂躙したのはたしかであり、そんな自分の行為に無神経という意味で「大きな罪人」なのだが、そうではない<大きな構造>があるではないか。というか、ナボコフはそんな「リアリズム」で社会を告発するような作品を書いているわけではない(そのことに無頓着だったナボコフもまた、ハンバート・ハンバートと同じように<有罪>なのだという読み方だとしたら、あまりに「浅い読み方」だろう。ひとつには、読めばわかることだが、ナボコフは「無頓着」だったわけではない)。
 ということで、わたしは桜庭一樹の『ロリータ』読解にはまるで賛同できないのだった。

 ここでようやく、映画『私の男』の話に戻るのだけれども、あららら、この話、なんと『ロリータ』の読み替えではないかと、観始めてすぐに思った。
 二階堂ふみは震災の津波で両親を失い、遠い親戚だという浅野忠信に引き取られていっしょに暮らすことになるのだけれども、つまり浅野忠信二階堂ふみとは「性的関係」を持つことになるのだ(というところまで観た)。
 まあ原作の桜庭一樹がどこまで『ロリータ』を意識して書いたのかどうかわからないけれども、『ロリータ』は単に「幼児性愛」のヘンタイの物語ではなく、ひとつの「文学論」でもあり、ただストーリーだけをあげつらってどうのこうの言えるような小説作品ではないのだ。
 ‥‥などと思いながら映画を観ていたらだんだんに面白くなくなってきて、「こ~んな原作の映画は観ないぞ!」という気になって観るのをやめてしまった。

 さて、そんなことやってたら夕食の時間も近づき、「今夕は何をつくるかね~」ということになり、「あさりのオイル漬け」でレシピを検索すると、トマトと煮込めばいいのだよというのを見つけ、お手軽そうでもあり、さっそくコレをつくってみるのだった。

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 出来上がってみると「おいしいスープだね!」ということでおいしくいただいたのだけれども、実はコイツはイタリア料理の「バーニャ・カウダー」というヤツで、つまりコレはディップソースで、コレにいろんな生野菜を浸して食べるモノだったらしい。まあいいや。

 食後テレビを見ていると、なんと! スカ総理が「Go To トラベル」の一時停止を発表したという。こう、ここまで「後手、後手」でやらかされると、「あんた、どこまでバカなの?」と思うしかない。昨日までは「『Go To トラベル』を中断する考えはありません」といっていたはずなのに、このタイミングで「停止」するかな~、とあきれてしまう。しかも今の時期に「中断」すれば、つまり「年末年始」の日本中の皆が「こんな時期ぐらい旅行行きたいよね~」という時期にかぶってしまう。じっさい、この12月28日から1月11日までが当面の「中断対象時期」だという。って、中断開始の28日だって今から2週間も先だし、それまでは「やっていいよ~」ということなのか。わけわからない。
 そもそもが「Go To トラベル」というのは是非はともかく置いておいて、停滞した日本経済を何とか動かすために、「まあとにかく、あんたがた国民はいっぱい旅行しなさいよ」というプロジェクトだったろうと思うのだが、それが日本国民が「やっぱり旅行するなら<年末年始>だよね~」という、江戸時代からの(いや、もっと昔からなの?)国民の行動様式、「なんか、『Go To トラベル』も継続しちゃうみたいだね~」というところで「やっぱり<年末年始>は旅行だね!」と計画しちゃっていた人たちに、この寒い時期に思いっきり「冷水」を浴びせかけるような決定ではないか(もちろんわたしとしては、この年末年始はみ~んな、旅行などせずに「Stay Home」に徹すべきとは思っているけれども)。
 ここまで「『Go To トラベル』を中断する考えはありません」と引きずってきたのなら、「旅行をされてもかまいません。しかし、<COVID-19感染>を避けるため、いろいろと注意していただきたいことがあります」とでも国民に語りかけ、「Go To トラベル」を継続する方がよほど筋が通っていたのではないだろうか。だいたいこれまで、スカ首相はほとんど、国民に「こういう行動を取って下さい」という要請もしていないのだ。彼が言ったのは「会食の時にはマスクをつけたり外したりしながら食事しなさいよ」というナンセンスなことぐらいのものだ(この点で、実は同じく「スカ」であることには変わりのない小池都知事にすら、大きく負けてしまっているわけだ)。
 ただ行き当たりばったりに、自分の支持率が下がってきたから「これはヤバい!」とそれまでの政策をいとも簡単に投げ捨てるような政権を、誰が信用信頼するだろうか。史上最低の、情けない首相ではあるだろう。