ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『透明な対象』ウラジーミル・ナボコフ:著 若島正・中田晶子:訳

透明な対象 (文学の冒険シリーズ)

透明な対象 (文学の冒険シリーズ)

 ナボコフの遺した、生前さいごから2冊目の作品。遺作になったのは『見てごらん道化師を!』(1974)なのだけれども、なぜかこの『見てごらん道化師を!』に関しての言及はネット上でもあまり目にしない。なぜなのかわからないけれども、まあ次に読んでみよう。

 この『透明な対象』は1972年に発表され、原題は「Transparent Things」。翻訳もちょっと大きめの文字で160ページほどのもので、「長篇」というよりは「中篇」といった趣(おもむき)。ところがナボコフはこの作品を1969年に書き始めていて、つまりこの作品執筆に2年とか3年とかかけている。こんだけの分量なら早いヤツなら3日で書けるだろうし、3週間、いや、3ヶ月で書いちゃうね、というところなのだが、3年だぜ! 密度が違う。
 って、ナボコフがこの作品を書いていた1969年から1972年というと、ロック音楽が急速に発展し、サブカルチャー全盛期ではあるのだけれども、はたしてナボコフは「ロック」を聴いていたのか?という設問も湧いてくるのだけれども、まあこれは「愚問」というか、ナボコフにとっては、あらゆる音楽は「雑音」にすぎないのだった。

 この作品はついに、ナボコフアメリカを離れてスイスのモントルーのホテルで悠々自適の生活をするようになって初めて、そんなスイスを小説の舞台として選んだ作品。主人公のヒュー・パーソン(曲者な名前)がその40年の生涯で4回訪れたスイスでの体験を中心に書かれた作品ではある。
 しかしこの作品、そのストーリーを読んで楽しむという作品ではなく、「作品の構造を読み取れよ!」と読者に迫る作品なのだ。
 この作品には、物語の語り手(書き手)としての「わたし」もしくは「我々」というのが登場し、つまり読んでいて「わたし」とは誰?「我々」とは誰?ということがまず突き付けられ、主人公のパーソンの「死」までつきまとう問題ではある。
 これは先日読んだナボコフの『プニン』でも、語り手の「小生」とは誰よ?というもんだいでもあり、もっとさかのぼれば中篇『目』の、語り手と主人公との関係にも関連してくるだろう。
 そこで「ナボコフの作品における<語り手>とは誰?」というところにまで考えは発展してしまう。それはナボコフ作品における「信頼できない語り手」というもんだいとも関連してくるだろう。さっき書いた中篇『目』の「語り手」は、ある意味で「大ウソつき」なわけで、「読者を騙くらかそう」と手ぐすねひいている。そして次に、『絶望』の一人称文体の書き手(=主人公)は、まったく「現実」を認識することができておらず、読者は「書き手」の言うことを最後まで信じて読みながら、そのラストに「なんと!」という足蹴をくらわされてしまうのだ。
 そして、『ロリータ』にしても、おそらくはどこか狂っている「書き手」のハンバート・ハンバートの言うことを読者は信じながら読むしかない。それは「ハンバート・ハンバート」イコール「ウラジーミル・ナボコフ」だろうという「思い込み」に読者を誘うのだけれども、ナボコフはどこかしらっとして、「いや、違うね」と言ってるわけだ(わたしに言わせれば、『ロリータ』のいちばん面白いのはその「ハンバート・ハンバート」と「ウラジーミル・ナボコフ」との距離感ではないかと思っている)。
 『プニン』はもうちょっと素直で、「さて、<小生>はどこにいるでしょう?」みたいな「謎解き」的な側面が強い。

 それでこの『透明な対象』だけれども、一面で『プニン』のように、「さて、<わたし>、<我々>とは誰でしょう?」という側面があるのは確かなこと。そのうちの、おそらくはこの『透明な対象』を書いているところの「わたし」とは誰か?ということは、(訳者の若島正氏の親切な解説もあって)けっこうかんたんに「コイツだぜ!」と特定できる。
 しかし、なぜこの「書き手」は「わたし」だけでなく「我々」と書くのか。その書き手といっしょになって「我々」として背後にいるのは誰なのか、と考えるとまた面白い。

 先の『目』にせよ『絶望』にせよ、はたまた『ロリータ』にせよ(まあ『淡い焔(青白い炎)』のキンボートもそんなひとりだろう)、語り手というか主人公は「困ったチャン」というか「唾棄すべき人物」であったりするのだけれども、この『透明な対象』の主人公のヒュー・パーソンもまた、いわば「大した人物」ではない。夢遊病から新婚の奥さんを殺害し、刑務所と精神病院とを行ったり来たりしているような人物ではある。
 この作品にはそれなりにいろいろな人物が登場するが、たいていはみ~んな、どこか「変」であり、けっこう死んでしまう人たちが多い。ヒューのお父さんは新しいズボンを買おうとして店の着替え室で奇っ怪な死に方をするし、ちょっとマトモではないヒューの新妻のアルマンドはヒューに絞殺される。ヒューは出版社職員(編集者)として、やっかいな作家「R」の担当になるが、そのRも病死してしまう。アルマンドの取り巻きだった若い男は今も深い雪の下に埋もれたままだったりもするし。そして、(書いてしまえば)ヒュー・パーソンもまた、作品のラストでは焼死してしまうのである。
 わたしが思ったのは、これはこの作品の中に頻出する「死者」たちのことに限らず、ナボコフの過去の作品に登場した人物ら皆のことではないのか、ということだった。もちろん『ロリータ』のハンバート・ハンバートは作品中でその死が語られていたし、『ベンドシニスター』のクルグも死んでいる。『淡い焔(青白い炎)』のシェイドもしかり。もしかしたら、あの愛すべきプニン教授ももう亡くなられているのかもしれない。そう考えれば、この「我々」とは、過去のナボコフ作品の登場人物すべての総和なのかもしれない。わたしはやはり、この『透明な対象』はナボコフの「遺書」的な側面が強いのではないかと思うし、そう読み取りたいという誘惑に抗うことはむずかしい。

 タイトルの『透明な対象』は、原題の「Transparent Things」の「T」の頭韻を活かすための訳者の若島正氏の苦肉の策で、やはりこの、「Things」を「対象」と受け取ると、何かを見逃してしまう気がする。「透明なモノ」。しかも単数ではなく「Things」と複数形になっていることにこころを留めるべきなのだろう。ただわたしは、最終チャプターに出てくる「綺麗に包装した箱」の中の、「緑色に塗られた女性スキーヤーの小さな像」、「それが二重の殻を透かして輝いている」という描写にどこまでも惹かれるだけである。この作品の前半には「緑色」というものがひんぱんに登場するけれども、それにしても「二重の殻を透かして輝いている」とはどのような状態なのだろうか。わたしは「この一点」にこそ、この作品の何かが凝縮されているように読み取る。

 実はこの作品にはヴィトゲンシュタインの思考も影を落としているらしいのだが、そればかりはわたしには何とも語りようがない。