ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ずっとお城で暮らしてる』シャーリイ・ジャクスン:著 市田泉:訳

 この前に読んだシャーリイ・ジャクスンの『山荘綺談』が、ほぼ全篇、ちょっと神経を病んだ登場人物の視点から描かれていたように、この『ずっとお城で暮らしてる』もまた、すべてが登場人物のひとりメアリ・キャサリン(メリキャット)・ブラックウッドの一人称視点で貫かれている。それでまたもや、その語り手が健常な精神の人物ではないというところから、まさにシャーリイ・ジャクスン的な世界が展開してしまう。

 メリキャットは18歳で、地方のひなびた町(村)の片隅のけっこう大きな屋敷に、姉の28歳になるコンスタンスと、伯父の年配のジュリアンとの三人、それとメリキャットの飼うジョナスというネコとで暮らしている。
 実はこの屋敷では6年前、毒物(ヒ素)による大きな毒殺事件があり、メリキャットの両親、弟、そして伯母らが死亡している。伯父のジュリアンもその後遺症もあって車椅子での生活で、今は多少の認知症もあるようだ。彼はその薄明の精神の中で、6年前の事件の真相を手記としてまとめようとしているといい、毎日何かを書きつづけている。
 この事件では姉のコンスタンスが裁判にかけられたが、無罪が確定して釈放されている。しかし、村びとは口さがなく事件を語りつづけている。屋敷は父が「私有地の囲い」の柵を設けていて、家族以外は入ることはできなくなっているが、コンスタンスは村に出ることはなく、メリキャットが日常の買い物で村びとに呪詛の気もちを抱きながらも村に買い物に行く役目を担っている。屋敷には親の残した多額の現金が金庫にしまわれていて、姉妹が生活に困窮するおそれもないだろう。
 メリキャットは「月へ旅する夢」「羽根を持つ馬」、そして世界を呪詛する三つの「魔法の言葉」とかいうファンタジーの世界にいて、とても18歳相応の女性とは思えないところもある(読んでいれば、さっさと事件の背景の「真実」は読み取れるだろう)。
 メリキャットが村に買い物に出ると、村びとは「ブラックウッドの家のヤツだぜ!」と陰口をきき、

 メリキャット お茶でもいかがと コニー姉さん
 とんでもない 毒入りでしょうと メリキャット

 などという戯れ歌をはやしたてる。

 このままの日常がつづけば、姉妹も世間から自分たちを隔離しながらもこのままの生活をいつまでもつづけられたのかもしれない(それは、映画『アザーズ』のようなものになっただろうか?)。しかし屋敷にブラックウッド家の従兄のチャールズがやって来ることで、その均衡がこわれる。
 チャールズは6年前の「事件」の真相を調べるというが、実はこの屋敷にしまわれている財産目当てなのかもしれない。メリキャットは訪れたチャールズに猛烈に反撥し、彼に対する嫌がらせを繰り返す。そしてあるとき、チャールズの過失によって火災が起こり、屋敷の二階のほとんど、そして一階の一部までもが焼け落ちてしまう。
 そしてその消火活動の混乱に乗じて、多くの村びとが屋敷に押しかけ、乱暴狼藉をはたらき、そんな混乱の中でジュリアン伯父は死亡してしまう。

 あとのことを簡単に省略してポイントを抜かして語れば、姉のコンスタンスと妹のメリキャット、そしてネコのジョナスとは、火災のあとも焼け残って蔓の伸びた屋敷で生活をつづけるのだ。彼女らは、ずっとお城で暮らしてるのだ。姉妹は「あたしたち、とっても幸せね」と語り合う。

 まずは読み進めて、このすべての視点の中心である語り手のメリキャットの、ちょっと18歳とは思えない精神の幼さと「歪み」が気になるのだが、読んでいて、つまりそれは6年前の異様な「事件」のせいなのだろうかと思うことになる。
 この小説のいちばんに巧みなところは、現在のメリキャットの(というか、この姉妹の)「歪み」とでもいうものが、はたしてその6年前の「事件」に由来するものなのか、それともそれ以前からどこかに内包されていたものなのか、終始あいまいなままに進行させていることだろうかと思う。
 そしてその「あいまいさ」の頂点に、姉のコンスタンスの存在があるだろう。

 この小説はどこまでも、最初っから最後まで妹のメリキャットの視点、思考からの一人称で描かれているのだけれども、実はこれらすべての出来事を見渡しているのは姉のコンスタンスの目で、ほんとうはこの小説と並行して、コンスタンスからの「一人称」視点の、同じ出来事を書いた小説を読んでみたいという誘惑にかられる。
 実は彼女らが住むその古い屋敷にはそこに住んでいたコンスタンス~メリキャットの親たちの古い歴史があり、それをメリキャットよりよく知っているのがコンスタンスであり、屋敷にある家具や食器をみてもその由来を語ることができる人物である。そして「わたしは務めを果たしてこなかった」とも語り、「みんなわたしのせいよ」とも言う。
 実はつまり、メリキャットはつねに現実へのひとつの「盲瞭」の中に生きているとも言えるわけで、そのすべてを「明瞭」な意識と知覚のもとに認識していたのがコンスタンスではないのか。
 だからわたしはこの小説を読むとき、おもてにあるメリキャットの背後に隠された、姉のコンスタンスの意識、思考を想像せざるを得ない。このこともまた、この小説の卓越した魅力ではあると思う。

 これ以上書くと「ネタバレ」的になってしまいそうだし、こういう作品でそういうことをやってはいけない。それで付随して思ったのが、日本で近年起きた「ヒ素カレー毒殺事件」とこの小説との、あまりにもの類似性だった。この事件でまさに「ヒ素」が使われたということも類似のひとつだけれども、もっと語りたいのは「事件」後のことがらであろう。
 Wikipediaでそのあたりのことが読めるのだが、事件のあと「犯人」として起訴された人物の家をマスコミが取り囲み、子どもらは外出もできなくなる。その後被疑者の家には誰も住まわなくなって無人化するが、無断で敷地内に侵入する人物があとを絶たず、ついには家に放火されて全焼してしまうのだ。この小説と「相似形」ではないのか?
 なんだか、「犯人」と目された人物への誹謗中傷ということでもこの小説を思い出させられるものがある。しかし、この小説ではそういう面での人間性の「救い」も感じさせられるものだったが(手紙と共に届けられる食べ物)、日本での現実世界でのこのような誹謗中傷は、SNSとかニュース報道へのコメントなどで、この小説以下の、もっともっと非人間的なものに成り下がっている。

 さいごにもうひとつ。この文庫本には桜庭一樹氏による「解説」が掲載されているが、これはわたしにはまったく「見当はずれの読み違い」と思える。彼女はこの作品でメリキャットは村人の悪意を「死ぬほど恐れている」とするが、そんなことはない。ただそこには「乾いた呪詛」があるのだ(火災の場面は別として)。この、メリキャットの「世界への呪詛」を読み取らずして、この小説の何が読み取れるのだろうか?
 また、その解説でシャーリイ・ジャクスンの短篇「くじ」について、ストーリーをぜ~んぶバラしてしまっているのも「いかがなものか」とも思う。
 桜庭一樹という人は、何年か前にもナボコフの『ロリータ』のユニークな「誤読」をし、「小説の主人公の思考」イコール「作者の思考」とばかりにナボコフという小説家の「人格攻撃」までした人で、一部ネット上でかなり批判された人だった。彼女の作品は読んだことがない(読むつもりもない)ので何とも申せないが、どうも小説を読むのは苦手な方のようだ。