ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ベンドシニスター』ウラジーミル・ナボコフ:著 加藤光也:訳

ベンドシニスター (Lettres)

ベンドシニスター (Lettres)

 ナボコフの著作を年代を追ってみてくると、1938年にパリで、この『ベンドシニスター』とも題材的にかぶるような(ちょっとカフカ的ともいえる)ディストピア小説『断頭台への招待』がロシア語で書かれていて、同じ年に「ロシア語作品時代」の代表作ともいえる『賜物』が発表されている。そしてやはりパリで書かれたであろうナボコフの最初の「英語作品」『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』を、アメリカ亡命後の1941年に発表、1944年には評論『ニコライ・ゴーゴリ』を発表し、1947年にこの『ベンドシニスター』が出ている。ちなみに、次作『ロリータ』は1953年に書きあげられ、1955年にパリのオリンピア・プレスから刊行される。
 何が言いたいかというと、ここにナボコフの文学的態度の「軌跡」のようなものが読み取れると思うからである。

 非常に一面的な読み方であることを承知で書けば、まず『賜物』の主人公フョードルはナボコフの分身のようであり、「小説家」として自立しようとするナボコフの自伝的小説と読むことができると思う。ここで、作者であるナボコフと作中のフョードルとの距離をみてみると、この『賜物』のなかには主人公のフョードルが書いた「チェルヌィシェフスキーの生涯」という、実在のロシアの思想家チェルヌィシェフスキーの「評論的」な伝記小説がそっくり収録されている。これはもちろん、『賜物』の登場人物であるフョードルに託したナボコフの作品ということができる。
 まあ小説などというものは皆、その登場人物に作者自らの思想を託したものだと乱暴にいうこともできるのだろうけれども、ここではじっさいの「作品」として小説の中に提示されている。

 このことは、ちょっと先走って『ベンドシニスター』に書かれたナボコフの考えを書いておきたいのだが、そこでナボコフは「小説の中に<偉大な詩人>や<世界一の画家>を登場させたとして、その<作品>はどうするのだ?」と書いている。
 まあ『賜物』でのフョードルはまだ<駆け出しの作家>ではあるけれども、とにかくここで、自分の小説内に登場人物の書いたとする<作品>を挿入している*1

 こういう「方法」(=登場人物と作者との<同一性>)というのは、そんなに毎回毎回作品上で試みられるものではないと思うが、じっさいに次作の『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』ではクッションを置き、『賜物』と同じようにセバスチャン・ナイトという作家の伝記が主題になるのだけれども、ここですでに亡くなっているセバスチャン・ナイトの「伝記」はすでにある批評家によって書かれていて、セバスチャン・ナイトの弟がその伝記の内容、執筆姿勢を肯定せず、自らが兄の伝記を書こうとするストーリーだった(と思う)。
 ここでは作者のナボコフは小説の背後に隠れているのだけれども、そのラストにこの作品の書き手である弟が、「ぼくはセバスチャンなのだ。あるいは、セバスチャンがぼくなのだ。」と書くとき、その「ぼく」とは作中の「弟」であると同時にナボコフ自身でもあるだろう、という読み方ができる。

 それで、『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』のあとにナボコフには珍しい「非ー小説」である『ニコライ・ゴーゴリ』という評論を書き(この評論についても今書いていることがらの中で書くべきこともあるだろうけれども、今はすっとばして)、ようやく『ベンドシニスター』のことになる。

 わたしはこの『ベンドシニスター』のストーリーなどは書かない。ただ、ナボコフの<方法>についてだけ書いてみたい(うまく書けるだろうか?)。
 この小説でも、ストレートに主人公のクルークをナボコフの分身ととらえなくてもいいわけだけれども(世界的に名の知られた哲学者としてのクルークにナボコフの面影を読むなというのもむずかしいだろうが)、作者のナボコフはこの作品全体に「わたしが今書いている小説だ」という大きな<影>を投げかけている。それは作品のストーリーの「暗さ」を救うユーモアとして機能するときもあるし、いちばん注目すべきは、書き手としてのナボコフが主人公のクルークに「慈悲の救い」を与えることだろうか。
 ここで、ナボコフは『賜物』や『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』でのように作中の人物と自分自身を同一化するのではなく、「この小説は<わたし=ナボコフ>が書いているのだ」ということを、読んでいる読者に意識させることに成功していると思う。これはやはり、『賜物』や『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』を書いた「成果」というものではないだろうか。

 この到達点が次作の『ロリータ』で引き継がれ、主人公のハンバート・ハンバートに作者ナボコフの<影>を読者に読み取らせながら、『ロリータ』全体をナボコフの作品として昇華させることになったと思う。
 さらに書けば、このようなナボコフの執筆姿勢は、1962年の『淡い焔』(『青白い炎』)でひとつの完成をみるのではないのか、というのがわたしのナボコフの読み方ではある。‥‥まったく、『ベンドシニスター』の読書感想にはならなかったが。
 

*1:ちょっとここで脱線すると、先日観たジャック・リヴェットの『美しき諍い女』において、「高名な伝説的画家」を登場させ、その<作品>をも、作品を描く過程を含めて映していたことを思い出してしまう。しかし、あの映画に登場した絵は、わたしの感想では「大したものではない」。とても「高名な伝説的画家」の作品と言えるようなものではなかっただろうと思う。