ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『偉業』(1932) ウラジーミル・ナボコフ:著 貝澤哉:訳

 翻訳された貝澤哉氏が「解説」で書いておられるが、ナボコフの長編小説の多くは、既存の小説ジャンルのパロディとして捉えることが出来る。例えばデビュー作『マーシェンカ』は恋愛小説、『目』や『絶望』はサスペンス・推理小説、『賜物』は伝記小説などということが出来る(『ロリータ』は、「犯罪者の告白からなる実録小説」といったところ?)。
 そう捉えるとこの『偉業』は(貝澤哉氏も書かれているように)「冒険小説」ということになるのかもしれないが、わたしは読んでいて、主人公のマルティンが青年時代からさまざまな旅を重ねて「自己探求」「自己実現」を目指して行く、「ビルドゥングス・ロマン(教養小説)」のパロディではないかと思いながら読んだ。
 しかし主人公のマルティンロシア革命前にサンクトペテルブルクで生まれ、革命後は母と共に(父母は離婚)スイスへ逃れ、その後母と別れて一人でイギリスへ渡って「ケンブリッジ大学」で学ぶわけで、もちろんナボコフ自身の「体験」とかぶることになる。そういうことから「ナボコフの自伝の試み」という読まれ方もするらしいが、この小説に出てくる恋人のソーニャや友だちのダーウィンらは「モデル探し」をするような存在ではないだろうし、もちろんわたしは、この小説にはナボコフの実体験が色濃く反映されているものとは了解するけれども、そのような「ナボコフの自伝かも?」などという読み方は早くに捨ててしまった。

 この作品の魅力のひとつは、そのストーリーテリングの巧みさにあるのではないかとわたしは思ったのだけれども、マルティンはひんぱんに「旅」を繰り返して成長して行くわけだけれども、そんな「旅」を描写しているなかで「空間的」な旅はいつしか「時間的」なマルティンの成長へと収束してしまうというか、読んでいて「あれ?」と思う間に舞台転換がされて行く。こういうところはさすが「ナボコフ作品」の面白さなのだけれども、ナボコフの他の作品にはない、この作品独自の「面白さ」なのではないか、とは思う。

 初期のナボコフ作品の主人公は、多くの場合で「犯罪者」(『キング、クイーン、ジャック』、『ロリータ』)だったり「狂人」(『絶望』、『ルージン・ディフェンス』(?))であったりするか、さもなければ逆に『賜物』や『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』のような才能ある文学者だったりするわけだけれども、この『偉業』のマルティンの歩む道は、「才能あるもの」の歩む道には思える。少なくとも「犯罪者」や「狂人」ではない。
 しかし、じつのところマルティンは、『偉業』というタイトルから想起されるような「すごいこと」を成し遂げる、というわけではない。いや、じっさいマルティンはあることを計画し、そのことを実行に移して、そのまま小説の中から姿を消してしまうのだけれども、その行動はただ「危険を冒す」だけのものとも思ってしまう。
 じっさい、ロシア語版のタイトルはまさに『偉業』という言葉らしいが、ナボコフが息子と共にこの作品を英訳したときのタイトルは「Glory」なわけで、読み終えてマルティンの行動を考えてみると、「Glory」という言葉の方がわたしには理解、同調しやすいかな、という気はした。

 小説のラストは、マルティンの友人のダーウィンマルティンの母親にマルティンのことを伝えようとスイスへ行く場面なのだが、濃い靄(もや)の中の風景は「絵の中の風景のように謎めいて見えた」と終わるのだが、その「絵」というのは、小説の冒頭に「曲がりくねりながら奥へと消えて行く道が描かれた絵」として、幼いマルティンの寝室に掛けられていた絵なのだ。
 わたしはあまりにも長い時間をかけて、ちょっとずつ読み継いでいたわけだから、もう細かい人間関係だとか細部は忘れてしまっていたのだけれども、そのラストの場面が冒頭に出てくる絵につながるということは理解していて、その瞬間に、またこの本をさいしょっから読み直したくなってしまったのだった。