- 作者:ウラジーミル・ナボコフ
- 発売日: 2016/05/31
- メディア: 単行本
ナボコフさいごの長編小説。どうもナボコフ関連でいろいろ検索しても、この作品はほとんど無視されている感じがあるのだが、まあ読んでみるとその理由もわかる気がする。
本書の「訳者あとがき」によると、ナボコフは1977年(ナボコフの没年)に刊行された「悪名高い」アンドリュー・フィールドによるナボコフ伝の草稿を1973年に読み、その歪められた「ナボコフ像」に怒り心頭してこの作品を書き始めたということ。
わたしは先に『ナボコフ書簡集』を読むことで、そのアンドリュー・フィールドの「伝記」がいかにヤバいものだったかを知ってはいたし、それを読んだナボコフの怒りも理解出来るのだけれども(例えばアンドリュー・フィールドはその「評伝」で、ナボコフは若い頃の母への手紙に「私の愛するロリータ」などと書いたのだという<でたらめ>を書いているし、他にもその<でたらめ>ぶりは無数にある)、それでナボコフがやったことは、自らの手で自分の「自伝」をフィクションとして書き換えることだった。
この作品での主人公(語り手)のヴァジム・ヴァジモーヴィチはナボコフ自身の生涯を年代的にはなぞってはいるのだけれども、「3~4度結婚した」ことになっているし、ナボコフの作品の登場人物と自身とがごったまぜになってしまってもいる。ヤバいのは、後半に出てくる自分の娘との生活で、ここには『ロリータ』の展開がまぜこぜになっているし、さらにヤバいのは、生前の一時期には「盟友」だったエドマンド・ウィルソン(いちおう仮名になっているけれども、読めばそれが「エドマンド・ウィルソン」のことだとわかる)の死後、その未亡人と再婚してしまうなどという「とんでもない」展開で、自分のことならずとも、「実在」の他者についてこ~んな「虚構」を仕立てて書いてしまっていいものだろうか?と、あきれてしまうというか心配になってしまう。
わたしはこの『見てごらん道化師を!』を読むしばらく前に、ナボコフがもっと若いときに書いた<正当な>自伝『記憶よ、語れ』を読んでいたところだったし、さらに悪いことに今同時期に、ブライアン・ボイドによる『ナボコフ伝(ロシア時代)』を並行して読んでいたことで、これら三つの作品の<虚実>がわたしの頭の中で入り乱れ、わけのわからないことになってしまった次第であった。
ひとつ言えるのは、このナボコフの最後の作品は、それまでのナボコフ作品を知らずに(読まずに)足を踏み入れてはいけない世界だということで、気軽に「ではナボコフは、その最後の作品から読み始めてみようか」などということをやってはいけない、いけないのである。特に彼による自伝『記憶よ、語れ』は、マストアイテムではあろう。
わたしが思ったのは、この本はナボコフの仕掛けたひとつの「ゲーム」であり、ここで描かれた<虚>としての自らの<生>の中に、<現実>のナボコフの<生>、そしてナボコフによって書かれた作品の登場人物らの<生>とのらせん模様を読み解く快楽をこそ目指しているのではないかと思った。というか、その<快楽>はナボコフ自身がいちばんに享受したものではないかと思うのだが、その人生のさいごにこのような作品をものしてしまったナボコフ、「さすがだぜ!」という感じではある。
この書物はナボコフとしては異例の速度で書き進められたらしく、それだけにどこまで「推敲」を得た文章であるかということに疑問もある。作中でも主人公がこの書物の草稿を(さいごの)妻に読んでもらうのだけれども、その妻は感想として「哲学の不在」ということを語っていたりする。
そのことはわたしも感じたことで、前作の『透明な対象』での、文学というものへの冷徹な、哲学的ともいえる意識からは距離があるのではないのかと思った。とにかくは「自己耽溺」とでも言えるような、ある意味「ひとりよがり」な展開は多い。しかし、けっきょくのところ、ひとつの「自伝」としての「自己認識」として、「自分が回れ右をしたとき、右と左の区別がつかなくなる」という意識の「命題」は考えさせられるところではあるだろうとは思った。
ただわたし自身としては、たいていのナボコフの作品は読んでまだ記憶があったので、この『見てごらん道化師を!』を読んでいても「わかんねえや」ということもなかったつもりだけれども、ナボコフの前の前の作品『アーダ』に関してだけはまるっきしどんな作品だったか記憶に残っていなくって、けっこう『アーダ』絡みの話の多いこの本で、「しまった!『アーダ』をもう一回読んでからこの本を読めばよかった!」とは思うのだった。
というわけで、ナボコフを読む長期計画、次にはまた『アーダ』を読み、そのあとにまた、この『見てごらん道化師を!』を読もうかとは思うのだった。