ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2024-07-05(Fri)

 早朝、まだ外も暗い時間に目覚めてみると、目の前のキャットタワーの上にニェネントくんが上がっているのが見えた。「やあ、戻って来たんだね」と思いながらまた寝てしまい、次に目覚めたとき、もうキャットタワーの上にニェネントくんはいなかったのだった。まだ何か、気に入らないところがあるのだろうか。元はといえば、あんたが汚したせいだろうに。

 今日もまた雨も降らず、とっても暑い一日になった。7月になったとたん、まさにカレンダー通りに「真夏」になってしまった感がある。カレンダー通りに行くならばつまり、この暑さは8月31日までつづくのだろうか。
 テレビでも「不要不急の外出控えて!」といっておるので、わたしは今日も一歩も外に出なかった。写真は一昨日撮ったもので、ウチの近くを飛んでいた「ツマグロヒョウモン」。ちょっとピンボケ。

     

 今日もまた「アマゾンミュージック」で音楽を聴きながら本を読んでいたのだが、こうやってしばらく「アマゾンミュージック」を聴いてみるとやはり「何でもかんでも聴ける」わけではなく、いくら探しても見つからないアルバムとかもある。それから、けっこう古い音源だと、特に「ベスト盤」などで「ははあ、これは再レコーディングしたヤツだな」というのに出くわすこともある。

 この日はそんな音楽を聴きながら、昼間は『体内の蛇 フォークロアと大衆芸術』という本を読んでいた。読み終えたら感想でちゃんと書くけれども、この本はホラー映画の内容が昔の言い伝えに似ていたりするということから、文学・映画などとフォークロアとの関係を説いたもの。タイトルの『体内の蛇』というのは、ナサニエル・ホーソーンの短編集『Egotism; or, The Bosom-Serpent』から採られたもので、これはホーソーンが古くからある「人の体内に蛇などの動物が棲み付いている」という言い伝えについて書いたものらしく、それがつまり『エイリアン』の「チェストバスター」のヒントになっていたのではないか、ということなのだ。
 わたしはこういう「物語のアナロジー」とでもいうような話は大好きで、けっこう夢中になって読んだのだが、ここで引き合いに出されたナサニエル・ホーソーンの本とかも読んでみたくなって、調べてしまうのであった。

 わたしはホーソーンというのはただ『緋文字』の作者とだけ知っていても、彼の本は今までまったく読んだことがなかったわけだったが、どうやらエドガー・アラン・ポーと同じような「怪奇・幻想譚」の作者ではあるらしい。
 そうわかると、急にそのホーソーンの本を読みたくなってしまい、Amazonとかで検索してしまうのだった。そうやって探してみると、実はそんなホーソーンの「怪奇・幻想譚」的な短編集というのは今ではほとんど絶版で、それがかなり高額なプレミア価格がついているのだった。
 これにはちょっと驚いてしまったが、調べるとやはり今は絶版の『七破風の屋敷』という文庫本だけ、そんなに高額ではなくマーケットプレイスから売られていたもので、ついついポチってしまったのだった。

 つい先日、海外ニュースで、フランスの映画監督ブノワ・ジャコとジャック・ドワイヨンとが「不同意性交と性的虐待」の訴えで拘束されたとのことを知った。ジャック・ドワイヨンの名は『ポネット』という作品と共によく知られているし、この人、去年亡くなられたジェーン・バーキンセルジュ・ゲンズブールと別れたあと、正式に結婚していた人でもあるのだ。そしてブノワ・ジャコにしてもその名前ぐらいは記憶している監督だ。
 訴えられた罪状はかなり過去のことではあるようだが、これはもう「大事件」といってもいいのではないかと思う。その後の展開はわからないけれども、おそらくフランスでは今、大変なことになっているのではないだろうか。

 などと思っていたら今日になって、日本でもある監督が撮影の際に出演女優からインティマシー・コーディネーター(性的なシーンを撮影する際、俳優が安心できる撮影の環境作りをサポートする専門家)を入れてほしいという申し出を断っていたことがニュースになっていた。この「事件」について書いていくと長くなるのだが、問題が表面化したきっかけは、ある記者がこの作品の試写を観た際に、その「インティマシー・コーディネーター」のクレジットが確認できなかったので、試写のあと監督にちょくせつそのあたりのことを聞くと、「自分(監督)と女優のあいだに人を入れたくない」と、その女優の要望を断り、「イヤなことがあればすぐにわたし(監督)に言ってください」としたということ。
 これは何かというと、「インティマシー・コーディネーター」というのは、主には監督の演出に対して女優が違和感を覚えたりしたときに入る第三者という意味合いがあるわけで、この監督は「インティマシー・コーディネーターは入れません。イヤなことがあったらわたしに言ってください」と言ってるわけで、つまり極端なこといえば「わたしのことがイヤだったらわたしに直接言ってください」みたいなこと言ってるわけでしょう。それはあり得ない。
 さらに昨日の舞台挨拶で、監督は「わたしの不用意な発言により、皆様に多大なるご迷惑とご心配をおかけしたことを、この場を借りて謝罪したいと思います」と語ったというが、問題のどこにも「監督の不用意な発言」など出てくるわけもなく、この監督の「問題認識」のいい加減ささえも問題になるだろうし、そもそもそんな程度の現実認識の人間が「映画監督」など出来るのかいな、ということにもなる。
 とりあえずその映画は昨日から公開されているらしいが、とりあえず「プログラム」の発売は中止されているらしい。
 「#MeToo」運動からすでに7年のときが過ぎているようだけれども、日本でいえば「ジャニー喜多川」みたいな古い問題(事件)がまだ暴かれてはいなかったりもするようだし、「#MeToo」運動なんか知らないね、みたいな映画監督も、まだいたりするわけだ。