ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ナイトメア・アリー』(2021) ウィリアム・リンゼイ・グレシャム:原作 ギレルモ・デル・トロ:脚本・監督

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 日記に書いたように、わたしは数日前に、この原作から1947年に映画化された同じタイトルの『Nightmare Alley』(日本公開時は『悪魔の往く道』という邦題)をYouTubeで観ている。ただし英語字幕について行けなかったので、細かい展開はわかっていない(そもそも、「Geek」(獣人)とは何のことなのかわかっていなかった!)。しかし1947年版で主役のスタンを演じたタイロン・パワーは魅力的で、ブルジョワのサロンでお得意の「読心術」を演じる、押しの強い自信たっぷりの「詐欺師」から、終盤のメイクもすっかり変えて落ちぶれた男を演じる姿まで、「独壇場」とも言える演技を見せてくれていた。

 その点で、わたしがこのギレルモ・デル・トロによる再映画化作品で心配したのは、スタンを演じたブラッドリー・クーパーが、前作のタイロン・パワーに比べて「どれだけ魅せてくれるか?」というところではあった。
 そもそもわたしは、そのブラッドリー・クーパーのことはクリント・イーストウッド監督の『アメリカン・スナイパー』でしか見た記憶はないし、その記憶も今ではほとんど失せてしまっている。だから彼への印象は、この映画の予告映像や写真によるものになるのだけれども、そういうところでは、「この<成り上がろう>とするスタンという主人公には、ちょっと弱さが表に出過ぎるのではないか?」という印象は持っていた。
 しかし、この作品を観てみると、たしかに「弱さ」はあるのだけれども、それがこのスタンという男が裏に持って隠していた「弱さ」の表出として、実に魅力的だった。作品の冒頭に、スタンがそんな「移動カーニバル」にやって来る以前の彼の過去が短かく挿入されているのだけれども、それがスタンにトラウマのようにつきまとっていたことがよくわかり、その「弱さ」に彼の原点があるのだった。

 そのスタンの過去映像で、荒野に一軒建つ彼の家に火を放ってスタンが出立するシーンがあるけれども、その「火を放たれた彼の家」はそのあと、「遠くに見える移動カーニバル」の相似形として彼の目に入り、スタンはまるで彼の過去に吸い寄せられるように、その「移動カーニバル」へと足を向けてしまうのだ。

 この「移動カーニバル」というヤツが、ひとつこの映画の導入部の背景としてあまりに魅力的で、わたしはこういうのは「移動遊園地」としてヒッチコックの『見知らぬ乗客』のクライマックスの舞台になっていたことを思い出すのだけれども、そんな「移動遊園地」よりももっともっと規模が大きく、「回転木馬」や「観覧車」、そしてありとあらゆる「見世物小屋」「びっくりハウス」の合体したような、「こんな規模のカーニバル会場がほんとうに移動できるのだろうか?」みたいなスポットである。
 ここの、禍々しくも蠱惑的ともいえる世界こそ、まさにギレルモ・デル・トロ監督の見せる「異形の世界」の独壇場ともいえ、いろいろな「魅力」を見せてくれるこの映画の、導入部での大きな魅力になっている。

 ここで、まずはその「禍々しくも蠱惑的」世界を体現するのがトニ・コレット演じる、「にせ透視術」を演じタロット占い師でもあるジーナという女性で、彼女こそがスタンにとって、この「もうひとつ別の世界」への導師となる。
 わたしはこのトニ・コレットという女優さんが大好きで、彼女が出演しているというだけでその映画を観に行ったりしてしまうわけで、この『ナイトメア・アリー』を観るにはやはり、彼女が出演していたということも「大きな後押し」になっていた。そしてまさにこの『ナイトメア・アリー』でも、その「移動カーニバル」の座長であるウィレム・デフォーと共に、このアメリカの吹き溜まりのような異様な世界を体現するような人物を演じられ、実は主人公スタンの未来をも透視しているという、単なる「いかさま師」を超えたミステリアスな存在を見事に演じられていた。堪能。

 次に登場するのが、ルーニー・マーラ(この女優さんもわたしの大好きな女優さんだ)の演じるモリーという女性で、彼女は「移動カーニバル」で「感電女」というような見世物に出ていた女性で、スタンと知り合うことで、二人いっしょに「移動カーニバル」の世界から抜け出したいと思うのだ。誰もが思うように、彼女はこの映画で「ほぼ唯一」と言える「純なたましい」の持ち主であり、スタンが正しい道を歩むことを望んではいる。しかし彼女は「感電ショー」で電気ショックに耐えたように、古い日本映画のヒロインのようにただ耐えるのである。しかしついに彼女が耐えられなくなったときこそ、スタンの没落が始まる。

 スタンにとっては「移動カーニバル」の世界から抜け出すということは、ジーナのやっていた「透視術」をもっと発展させた「読心術」でハイソサエティの世界に踏み出すことだったが、そこで「第三の女性」リリスと知り合う。リリスを演じるのはケイト・ブランシェットであり、彼女もまた「あまりに素晴らしい女優さん」ではある。

 ここで、実は心理学者であるリリスのゴージャスなオフィスを訪れるスタンとリリスとの対話、対峙こそがこの作品の大きな「山場、見せ場」ではあり、わたしはこの場面を映画館で観ていてスクリーンに惹き込まれ、ここでのブラッドリー・クーパーケイト・ブランシェットの演技にも魅了され、「観終えたあとでプログラムを買って帰ろう!」と決めてしまったのだった(それまでは、プログラムを買おうとは思っていなかった)。わたしはここで、監督のギレルモ・デル・トロは単に「ダークなファンタジー映画を撮る」監督という思いを越え、人間ドラマをしっかりと捉えるすばらしい映画監督だと認識したのだった。

 すべてのストーリーをここで書いてしまおうとは思わないが、あとはいちばんラストの、スタンのセリフにはやはり戦慄させられたというか、ここでのブラッドリー・クーパーのセリフの抑揚にも打ちのめされた思いがする。

 この作品には、先の3人の女優さん、先に書いたウィレム・デフォーの他にも、ギレルモ・デル・トロ監督の作品の常連のロン・パールマン、そしてデヴィッド・ストラザーンその他の「名優」が出演されておられたが、そんな中で、出番は少ないながらも、メアリー・スティーンバージェンが「幸福感に包まれた表情を見せながらも」夫をピストルで撃ち殺す場面に、すっかり打ちのめされてしまった。一瞬の、あまりにすばらしいシーンではあった。