ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ロリータ』ウラジーミル・ナボコフ:著 若島正:訳

ロリータ (新潮文庫)

ロリータ (新潮文庫)

 おそらく、わたしがこの『ロリータ』を読むのはこれで三回目ぐらいになるのではないかと思う。さいしょはわたしもめっちゃ若かった頃のことで、もちろん大久保康雄氏による「旧訳」。そして、二回目は多分十年ぐらい前、今回読んだ若島正氏による訳が文庫化された頃だと思う。それでもって、わたしはそのあとに「過去の記憶を失う」という悲しい疾病を患ったおかげで、この作品の大まかなストーリーはわかっているものの、まあたいていのことは忘れ去ってしまった。そして今回、ほとんど初めて読むような気分でこの『ロリータ』を読んだことになる。

 で、こうやって新たにこの本を読むまでのあいだに、世間では「幼児性愛」的な犯罪が増加したわけだし、例えば映画監督のロマン・ポランスキーなんか、まるで「生けるハンバート・ハンバート」のごとき幼児性愛者として告発され、アメリカから追放されたりもしているわけだ。そういう世情を頭の片隅に置きながらこの『ロリータ』を読むと、「うへえ」というか、「これはヤバい」という反応が頭をもたげる。特に(これはあとで書くが)語り手のハンバート・ハンバートが、自分が凌辱するドロレス・ヘイズの人格をまるっきし無視していることに「おぞましい」という感覚を持ってしまう。

 それで、この作品の「語り手」であるハンバート・ハンバートという人物、まさにウラジーミル・ナボコフの創作した人格・人物なわけであって、「ハンバート・ハンバート」イコール「ウラジーミル・ナボコフ」ではない。しかし、ヨーロッパ(フランス)からアメリカに移住してきた人物であり、英語文学やフランス他ヨーロッパ文学に精通し、「フランス文学入門書」を編纂し、英語教師でもあったというハンバート・ハンバートはやはりナボコフ自身を想起させられるし、ひんぱんに引用される文学作品、そして「言葉遊び」、そしてこれまで読んできたナボコフ作品でも特徴的なユニークな比喩の多用からも、「これはまさにナボコフの文章ではないか」と思い、つまりそのことはいつか、「ハンバート・ハンバート」=「ウラジーミル・ナボコフ」みたいなつもりで読み進めることになってしまう。
 こんなことは小説を読む上で基本の前提として、「語り手」=「作者」ではないことは当たり前のことなのだけれども、この『ロリータ』のように作品全体が「語り手」の独白であり、その独白に「作者」の経歴やその作者独特の文体が認められると、そのあたりが混同されてしまうこともあるようだ。つまり、あたかもナボコフハンバート・ハンバートのような嗜好、思考をしているのではないかという誤解である(ただし、アリバイ工作のように、ハンバートはナボコフとちがって「蝶」と「蛾」の区別もつかないわけだけれども)。

 こんなつまらないことを長々と書いたのは、一~二年前にこの日本で、とある小説家や批評家によって「『ロリータ』否定論」のようなものが唐突に語られたことを思い出したからなのだが、わたしはそこには上に書いたような、「語り手」と「作者」との初歩的な混同があるのではないかと思ったのだった。つまり、この作品の語り手のハンバート・ハンバートを否定することが、そのままこの『ロリータ』という作品の「否定」になってしまっているのだ。
 これとは逆のケースもあるわけで、つまり「ナボコフは偉大な作家であり、この『ロリータ』は名作なのだから、彼が作品の中で彼の代理人として生み出したハンバート・ハンバートという人物は当然、肯定されなければならない」という読み方で、そこに「ハンバート・ハンバートのドロレス・ヘイズへの<純愛>」を読み取ろうとする。
 もちろん、ラスト近くに描かれたハンバートの体験、断崖の上で子供たちの遊び声を聞き、その声の中にロリータの声が含まれていないことを「絶望的なまでに痛ましい」と感じ入ったシーンはあまりに美しくも感動的で、そこに涙してもしまうのだけれども、その「ロリータの声の不在」の原因は、まさにハンバートのロリータへの行為の中にあったわけである(ただ、この場面の中においてのみ一瞬、ハンバート・ハンバートの贖罪はなされているのかもしれないが)。

 もちろん、ドロレス・ヘイズという「少女」にしても「純」な少女というわけでもなく、すれっからしでもあるわけだけれども、たとえば第一部の終わりに、「真夜中に彼女がしくしく泣きながら私の部屋に」やってくることの意味をハンバート・ハンバートは理解しないし、そのあとも「行為」のあとに嗚咽して泣く彼女のことを理解できない。自分が彼女を隷属状態に置き、「実は彼女が本当に腹を立てたのは、私が何か特別な楽しみを奪ったからではなく、全般的な権利を奪ったからだということがまもなくわかって、私は心底ほっとした」などとしれっと語る人物なのである。ドロレス・ヘイズは行方不明になって3年目のハンバート・ハンバートへの手紙で、「わたしはこれまで悲しい思いやつらい思いをたくさん体験してきましたから」と書くのである(ハンバートはそんな言葉に無頓着で、ただドロレスの居所を知り、彼女を連れ去った男への「復讐」の思いを抱いているのみである)。

 そのドロレス・ヘイズをめちゃくちゃにしてしまった男がもうひとり存在するわけで、ドロレスは「あたしの心をめちゃめちゃにしたのはあの人なの。あなたはあたしの人生をめちゃめちゃにしただけ」とハンバートに語るのだけれども、つまり対になってドロレスをいたぶったもうひとりの人物とはハンバート・ハンバートのまさに「分身」であり、この作品の終盤はハンバートが自分の分身を追いかけるという展開。その「分身殺し」のシーンはまさにスラップスティック・コメディだけれども、ナボコフもここでの二人の取っ組み合いを「私たちは私の上にのしかかった。彼らは彼の上にのしかかった。私たちは私たちの上にのしかかった」と、わかりやすく書いてはいる。

 ナボコフの小説らしくも、この「ハンバート・ハンバート」という、ひょっとしたら正気を逸しているかもしれない(いや、多分そうだろう)人物の回想、告白を、どこまで信用して読むべきなのかわからないところもあり、「ひとりの男に常につきまとう自分自身の影」として、この「クレア・クィルティ」という存在は、さいしょっから「ハンバート・ハンバート」の妄想なのではないかとも思える。
 ではなぜハンバート・ハンバートは逮捕されて収監されているのかということになるが、まあ彼の妄想の中の「クレア・クィルティ」を抹殺するため、「お門違い」の人物を殺害したのではないだろうか(あまりに乱暴な読み方)。

 ‥‥ということで、三回目の『ロリータ』を読了した。また来年にでも再読しようではないか。きっと、また違った読み方ができることだろう。あまりにいろんな「仕掛け」がありすぎる本だ。