ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ナボコフ書簡集1(1940-1959)』ドミトリー・ナボコフ/マシュー・J・ブルッコリ:編 江田孝臣:訳

ナボコフ書簡集1

ナボコフ書簡集1

 この本は「2」の(1959-1977)と合わせての書物ということで、「索引」も「訳者あとがき」も2巻目の末尾にしかない。だから「2」まで通読して、「1」「2」を合わせての感想を書こうかと思ったけれども、ナボコフの一面「波瀾万丈」の生涯の中で、この1巻目がちょうど『ロリータ』が出版され、それまで教授を勤めたコーネル大学を辞するまでということでキリがよく、おそらくはこれ以降にはナボコフの生活にも大きな変化が訪れることだろうから、この「1」だけで独立した書物として感想を書くことにした。

 ここで登場するウラジーミル・ナボコフは、もちろん小説作家であり、そして詩人であり、翻訳者、ロシア文学(に限らず世界近代文学)の研究者、大学教授。鱗翅目昆虫の採集者、研究者でもあるという多彩な顔を持っていて、さらに妻と息子のいる「家庭人」でもある。そして出版社などと交渉する「営業マン(?)」的な側面もみられるだろうか。
 基本、この書簡集ではアメリカに渡った1940年からの手紙が収録されているのだけれども、冒頭には1923年から1939年まで、アメリカへ行く以前のヨーロッパ時代の書簡も十幾篇掲載されてはいる。ナボコフがまずアメリカに渡って腐心するのは、もちろん「作家としての自立」を目指すのだけれども、まずはヨーロッパ(ドイツ)時代にV・シーリンの筆名で出版した作品群を、どのようにアメリカでの新しいキャリアに活かすかということが問題になる。もちろんそれらの本を英訳して出版すればいいのだけれども、のちにすべての自分のロシア語作品を自ら英訳したナボコフだけれども、このときには時に自分の英語能力に自信がなく(それとも創作の方を優先して時間が取れなかったか)、「良い翻訳者」を見つけることが最重要課題になるようだ(けっきょく、彼の作品でさいしょにアメリカで刊行されるのは、そもそも英語で書かれた『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』になるのだが)。
 この時期ナボコフはある編集者から「もうロシア語で作品を書かない方がいい」と言われ、ちょっと驚くということがあった。わたしはナボコフが自ら以後の作品をすべて英語で書くことを選択したのだろうと思っていたけれども、そこまで自覚的に決めていたわけでもなかったようだ。意外なり。

 この書簡集のハイライトはもちろん『ロリータ』の出版なのだろうけれども、出版にこぎつけようと奔走するナボコフは、実はその時期『イーゴリの遠征の歌』の英訳、そしてプーシキンの『エヴゲーニー・オネーギン』の英訳にもまた全力を注いでいたようだけれども、どうもその体験、その本の構成などが『青白い炎/淡い焔』の執筆につながったように思えてしまう。

 面白いのは『ロリータ』刊行後、グレアム・グリーンナボコフに最大級の賛辞を贈っていることなのだけれども、(個人的な感想だけれども)グレアム・グリーンパトリシア・ハイスミスに対しても賛辞を贈っているわけで、わたしの愛好するナボコフハイスミス双方に賛辞を贈っているグレアム・グリーン、わたしととっても趣味が合うのではないだろうかと思う。

 『ロリータ』の表紙に使うという少女のイラストへのダメ出し、自分の詩集の表紙に使うという蝶のイラストへのダメ出し(「そんな蝶は存在しない!」)、自作への翻訳へのダメ出しも楽しいといえば楽しく、『ロリータ』と同じ時期にベストセラーになったパステルナークの『ドクトル・ジバゴ』への「罵倒」は強烈だ。そういうのではポール・ボウルズの『シェルタリング・スカイ』について「まったくのこけ威しであります。才能のかけらも見えません」と切り捨てるのも爽快か(こういう「毒舌」は随所に見られ、この書物を読み進める大きな楽しみになった)。

 読み進めて意外だったのは、ナボコフからあの言語学者のローマン・ヤーコブソン宛の書簡があったことで、実は先に書いた『イーゴリの遠征の歌』の英訳は彼との共同作業として進められかけていたらしい。まあふたりはほぼ同世代だし、同じソヴィエトからの亡命者ということで交遊もあったようだけれども、ナボコフはその後のヤーコブソンのソヴィエト旅行とかに疑念を抱いたらしい。
 このあたりのことをネットで検索すると、ロシア語時代のナボコフの翻訳で知られる沼野充義氏が「ヤコブソンとナボコフの確執をめぐって」という、実に興味深くも面白いエッセイを書かれているのを発見した。

 さて、『ロリータ』がベストセラーとなり、経済的に困ることのなくなったナボコフコーネル大学の教授を辞め、次の「2」ではスイスのモントルーのホテルへ移るわけだ。どんなことが起きるのか楽しみではある。