ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2020-09-11(Fri)

 来週の土曜日からはわたしも4連休になる。そろそろ外に出かけてみようかと思いはじめてもいたので、連休前の金曜日にでも、まずは観たかった美術展を観に行こうかと考えた。今は先に観に行く期日を指定して予約しないといけないことが多いので、その美術展のサイトにアクセスした。やはり観に行く日、時間帯を予約しなければならないようで、そのサイトの予約フォームから必要事項を書き込んでいった。それでさいごのページに行くと、「観覧料金はクレジットカードからの引き落とし」ということで、クレカの番号を入力せよとのことだった。
 わたしはクレカを持っていない。対処のしようがないので、そこで予約をあきらめることになった。
 近年、こういう「クレカによる予約」のみというイヴェント(美術展、舞台公演、音楽ライヴ)が多くなっていると思うが、今のCOVID-19禍のもとではもっと増加していることだろう。つまりこのことは、「クレカを所有しない人はさいしょっからそのようなイヴェントに行く資格がない」と言われているわけだ。「クレカを持っていない人」とはつまり一般に「貧困層」というか、特に生活保護を受給されているような方は基本クレカは持てない。つまり、そういうクレカ決済のイヴェントはまず、「生活保護受給者はお断り」という姿勢だと考えられると思う。
 知られているように、生活保護の理念とは「健康で文化的な最低限度の生活を保障し、自立を助成する制度」であって、健康面でいえばそのおかげで医療費は無料になる。ところが、「文化的な最低限度の生活」をおくろうとして「あの美術展とか観に行きたいな」と考えたとしても、その美術展の主催者によって「なに? クレカを持ってない? では入場はお断りですね」ということになる。そういう、たかが(と言ってしまっていいと思うが)入場料1100円とかの美術展でも、ある意味で事前に入場審査が行われ、クレカを持っていない人は観られないということだ。これは生活保護受給者に限らず、国民誰もが持つ「文化的な最低限度の生活」をおくる権利をはく奪するものではないのか。まあその展覧会は「文化的な最低限度の生活」のための展覧会ではなく、「あなた、これはクレカも持てない貧乏人が観るような展覧会ではないのですよ」と言っているに等しい。
 そう、貧困層の人に限らず、例えば大学生や高校生(さらに中学生らも)はそもそもクレカを持っていないのが普通だろうし、そういう学生たちから門戸を閉じるような展覧会とは、いったいどういう展覧会なんだろう?
 そのサイトのどこにも、「クレカを所有していない場合」の対処法も書かれていなかったし(そういうものがあるのならばサイトに明確に表示すべきだ。以前そういうサイトを見たことはある)*1、ばかばかしくなってその展覧会を観に行くことはあきらめた。
 これは国の政策としてやられているわけではなく、民間レベルでこのようなことがやられているわけで、「貧困層排除」というのはそういうかたちであらわれているわけだ。まあ今の私営美術館というのは大企業が出資しているケースばかりで、そんな大企業の姿勢が如実にこうやって出てくるのだろう。
 それでわたしは同時に、あらゆる美術展、舞台公演、音楽ライヴ、映画館などに行く気もそこで失せてしまって、「もうこれからは<ひきこもり>で生きよう」と決意するのだった。

 わたしはここまで書いたことで「クレジットカードの審査に通らない人も<デビットカード>なら可能ではないか」ということは、あえて無視した。ひとつには、「クレカ使用可」とされていても「デビットカード不可」というところはそれなりにあり、「やってみないとわからない」ところもありそうだということ。
 たとえ今がCOVID-19禍の世界ではあっても(直接紙幣や貨幣を担当者が触れるリスク回避ということであっても)、「今この世の中で生活しようとするなら最低限デビットカードぐらい持つべきだ」という考えには同意しないことをお断りしておく(まあわたしもAmazonの買い物には「ギフトカード」を活用しているのだけれども、Amazonだって代金をコンビニで現金支払いする方策はあるわけだ)。それはいつも、「貧困層の排除」というはたらきを持っていると思う。

 今日も天候が荒れていた。仕事の帰りの跨線橋からの眺めで、このところ毎日のように見られる積乱雲がやはりこの日も雄大な(?)姿をみせていた。

     f:id:crosstalk:20200911125622j:plain:w500

 3時ごろには部屋からも雷鳴が聞こえるようになり、もちろんスマホにはいつもと同じように「大雨が来るよ!」という警告が届いているのだが、この地域の「雨雲レーダー」をみてみると、まさに南の、ウチから歩いて行けるぐらいのところに雨雲がかかっていた。雨雲は北に進んでいるようなので「このあたりももうじき雷雨かな?」と思ったのだけれども、意外とそのまま雨にもならず、かみなりの音もそれっきり聞こえなくなった。「どうしたんだろう?」とまた「雨雲レーダー」をみると、その濃い雨雲はウチの手前でヒョイと方向転換して、ちょっと東のコースを取ってくれたようだった。

 「ひかりTV」のダビングの細工はちょっと先延ばしにして(やはり新しく「ブルーレイレコーダー」を買おうかと思っている)、録画してある映画で時間の短いものを選んで観ている。今日はわずか80分という『髪結いの亭主』を観た。これもむかし映画館で観た映画だと思うが、何も記憶してはいなかった。
 夜、寝るときはナボコフの書簡集を読む。ついに1951年11月のある編集者への手紙で、初めてそのとき執筆していた『ロリータ』への言及があった。

(‥‥)これは、非常に道徳的な中年の紳士が、不道徳にも一三歳の継娘に恋したために抱えこんだ問題を扱う小説です。しかしながら、いつ完成するか予測できません。

 むむ、『ロリータ』の語り手のハンバート・ハンバートはとても「非常に道徳的な中年の紳士」とは言えないわけで、これは「手紙」だからそう書いたのか(ナボコフの「ジョーク」?)、それとも当初の構想がその後変化して、あのハンバート・ハンバートになってしまったのか。

 本を読んで眠くなり、そのまま寝ていると「風」を感じて目覚めてしまった。窓が開いていてそこから外の風が吹き込んでくるのかと思ってしまったが、起きてみるとベッドの前に置いてある扇風機の送風スイッチをニェネントが押して、「オン」にしてしまっていたのだった。
 

*1:あとでサイトを読み直し、学生は無料だということで、それ以外の人への対処として「その日のチケットが残っていた場合には当日券を発売する」ということが書かれているのがわかった。一日の入場者をどのくらいで見積もっているのかわからないが(COVID-19感染防止のため、入場者数を抑えていることは想像できる)、つまりは「売れ残っていたら<貧民>も観てもいいよ」ということであり、電話で問い合わせることができるのかどうかわからないが、そのとき行ってみなければ入場できるかどうかわからないということだろうか。やはりクレカのない人間は「お呼びでない」という精神に変わりはないだろう。