「髪結いの亭主」とは、日本で江戸時代から落語などでも語られた成句で、わたしたちにはなじみ深い言葉だった。それがフランス映画のタイトルになったりして、それでこの映画は日本で観客を増やせたのだろうか。原題も調べるとまさに「理髪師の夫」なわけだけれども、はたしてこの映画の製作者はこの言葉が日本で「成句」として知られていることを知っていたのだろうか。それとも、フランスなどでも「髪結いの亭主」という成句があるのだろうか。
この映画での「髪結いの亭主」はアントワーヌ。彼は少年期に理容師のシェーファーさんを好きになる。シェーファーさんはけっこう太っていて、体臭(コロンの香り)も強烈なのだけれども、まるで『フェリーニのアマルコルド』のように、アントワーヌは彼女に夢中になるが、シェーファーさんは急死してしまう。それでもアントワーヌは「将来は理容師さんと結婚したい」と思うのだった。
時は隔たって、アントワーヌもいつの間にか中年オヤジになっている(ジャン・ロシュフォール)。偶然立ち寄った床屋で理容師をやっている「理想の女性」マチルド(アンナ・ガリエナ)と出会い(シェーファーさんのように太ってはいないのだが)、「結婚して下さい」と申し込み、翌日承諾の返事をもらうのだった。
長い年月をふたりは幸福に暮らすのだが(そのあいだ、ケンカは一度だけ)、ある雷雨の日に濃厚な愛を交わしたあと、おそらくは「もうこれ以上の幸福はない(もうこれ以上愛し愛されることはない)」と思ったマチルドは「買い物に行く」と家を出たあと、川に入水する。
マチルドの死後もアントワーヌは以前と同じく店に座り、来た客に「妻はもうすぐ戻ります」と言うのである。
この作品にはアントワーヌのことと、マチルドのこととの別々のストーリーがあるように思う。そして、そのふたりの思いはどのように合致するのかということがあるだろう。
アントワーヌは少年時代の「性のめざめ」をそのまま持ちつづけた男のようで、映画ではその「少年時代」と「現在」以外はまったく描かれないのだが、「現在」のアントワーヌは、「少年時代」からまるで変っていないようで「これまでどうやって生きてきたんだろう?」といぶかしく思うほどだ。
こういう「少年時代そのまんま」みたいな男性は、そのあまりのわかりやすさもあって、男性観客の共感を呼びそうだ。まあアラブ音楽に合わせてヘンテコな踊りを踊るアントワーヌは、やっぱり「変人だな」という印象もあるけれども。
一方のマチルドもやっかいだ。前の床屋の店主から床屋を引き継ぐことは回想されるが、それ以外の彼女の過去のことはまったく、いっさい不明のまま。アントワーヌとの結婚式にも、参列者は少なかったとはいえ彼女の親族は誰も来ない。「旅行は好きでない」といい(それでもふたりで旅行するけどもね)、まあ見た感じは暗い女性ではないのだけれども、その唐突な「自死」を含め、自閉的なところがあるようだ。
マチルドがいなくなったあと、アントワーヌがほんとうのところどういう思いでいたのかはわからないのだが、どうも自然に、素直に受け入れているのではないかと思えてしまう。それはアントワーヌがマチルドを理解していたということだろうか。
「少年時代」からワープしてそのまま中年になってしまったようなアントワーヌの心は、マチルドの死でもいささかの変化もないということなのか。どうも、わかったようなわからないような、それはどこか「人の心はわからないよね」というようなことを思わせられるのだけれども、そこからちょっとした感慨を感じさせられるのがこの作品の魅力なのだろう。