劇場公開時に映画館で観て以来の鑑賞。ほとんど記憶に残っていなかったのだけれども、断片的にヴィジュアルとして記憶していたシーンがいくつかあった。雪の中のクジャクだとか、盲目のアコーディオン弾きと犬のラストシーンとか。
この作品、フェリーニの生まれ育ったリミニという海に近い町を舞台に、フェリーニの少年期のある1年、春からまた翌年の春までを、彼の家族を中心に町の人々とのエピソードと共に描いたもの。フェリーニ自身がモデルと思われる少年(青年?)も出てくるが、時代的には1930年代のことだろう。
「アマルコルド」というのは「わたしは思い出す」とかいう意味らしいが、この作品撮影時に50歳を超えていて、しかも協同脚本にトニーノ・グエッラを迎えているところから、この作品が「リアル」にフェリーニの記憶に忠実につくられたわけもなく、多くの「創作」「誇張」が含まれていることだろう。だからこそのこの作品の面白さもあるだろう。
冒頭の、町の祭りとしての「大きな焚火」のシーンはゴヤの絵を思い出させられるところもあり、楽しんだのだが、そのあとの「家族の食事」、「学校の授業」の短いコント的な情景などは、わたしにはこれっぽっちも面白くも楽しくもなく、「もう今日はこんな映画を観るのはやめてしまおう」とも思った。
もちろん、この映画での1年間を描くにあたって、その背景を示しておくというのはわかるのだけれども、演出の妙な小手先のギャグがじゃまで、「別に無理して笑わせてくれなくってもいいから、ストレートに撮ればいいじゃないか」とも思った。映画を観ていけば、ただ「コメディ」として始終笑わせようとする映画ではないことはわかるのだが、何が面白いのかわからなかった、というのが正直なところ。
おそらくフェリーニには「映画というものは現実から自立して、それ自体の世界として成り立つものがあるだろう」という考えがあるわけだろうけれども、そのことが魅力になるところもあるだろうが(この映画のその後の展開にはそういう魅力がいっぱいある)、どうも「現実をそのまま再現して提示するのはやめたい」という考えがあるようで、それは「ネオリアリズモ」映画からそのキャリアをスタートさせ、この時代(『81/2』以降?)そんなリアリズムを否定しようとしたようにみえるフェリーニの、こだわりなのだろうか。
それでも、エピソードの中でストーリーとして起承転結みたいなものが出始めてからはがぜん面白くもなり、単に「イメージ」としても強力になり、「いつの時代」というのではない、普遍的な映像の魔力を見せられたあたりの感銘は大きいのだった。
特に、霧深い朝(この「霧」はどうしたのだろう? 映画のために発生させた?)、少年が通学する途中で牛に出会う幻想的な場面、ただそれだけで魅せられたのだけれども、この場面は先日COVID-19に感染して亡くなられた名音楽プロデューサー、Hal Willnerの「Weird Nightmare~Meditations on Mingus」のジャケットだったことは記憶していて、観た瞬間に「あっ!これは!」と思った。このシーンはいいなあ。