ゴダール作品としては「異例」続きの作品、と言っていいのだろうか。まずは映画の「原作小説」があることで、むかし日本でも文庫本で翻訳の出ていたアルベルト・モラヴィアの『軽蔑』の映画化なのだ。そして当時の(世界の)セックス・シンボルであったブリジット・バルドーの主演、それだけでなく、ミシェル・ピコリやジャック・パランスなど、ゴダール作品には異質の俳優陣が並んでいる。もちろん、アンナ・カリーナの出演はない。これはゴダールがアンナ・カリーナと結婚していた1965年までのゴダールの作品で、彼女が主演していないのは『カラビニエ』とこの作品だけである(映画のさいしょの方で、アンナ・カリーナ主演の映画ポスターが貼られているのは見られるが、何という映画なのかはわたしにはわからなかった)。そしてカラー、シネマスコープ作品なのである。
わたしはモラヴィアの『軽蔑』は読んではいないが、このゴダールの『軽蔑』は、意外なほどに原作に忠実なようではある。実は原作でのポールという男も劇作家志望の映画評論家で、そこにまさに「オデュッセイア」映画化の脚本執筆という依頼が舞い込み、女優である妻と共にカプリ島へ行くというのであるから、まるっきし映画とおんなじである。
『勝手にしやがれ』で海外にも名が知られたゴダールに対し、この作品ではアメリカのプロデューサーのジョセフ・E・レヴィンが資金提供と共に介入し、そのためにゴダールは「アドリブ抜き」のしっかりしたシナリオを用意しなければならなかったし、「観客サービス」のため、ブリジット・バルドーのヌードを挿入させられたという。
ここに、せっかく「巨匠」の映画監督フリッツ・ラングが出演しているにもかかわらず、ほぼすべてのシーンでラングは単なる「一役者」として「映画監督」を演じているに過ぎなかった理由もあるようだ。わたしはここに、フリッツ・ラングの映画に対する「ナマの意見」をほとんど聞けなかったことをとても残念に思う。
(特に初期の)ゴダールの映画の面白さとは、その「即興性」であり、映画制作ということを映画自体の中に介入させる「メタ映画」性であり、既成の映画の演出からはみ出すような、「映画の自立性」を希求するような演出などにあったとわたしは思うのだが、この作品にはそのあたりが「希薄」だったと言わざるを得ない。
もちろん、原作で主人公が「脚本を依頼される映画評論家」でその妻が映画女優であるなどと、ゴダール本人とシンクロする部分が大きく、そのあたりにゴダールも興味を持ったのかとも思えるけれども、「映画の中で映画撮影風景が描かれる」というメタ性はあるけれども、この映画は基本的には夫婦間の「メロドラマ」だろうと思うし、ここにゴダールとアンナ・カリーナとの当時の関係を読み取ろうとするような映画の観方は、「ナンセンス」だろう。
ドラマ進行としても、さいしょのイタリアの映画撮影所の外でのやりとり、そして冗長な主人公の住まいでの夫婦のやり取り、さいごの「演出力不足」を露呈するようなカプリ島の場面の三つが主で変化に乏しく、先に書いたことと合わせてもわたしの観たところではこの作品は「凡作」だろうと思う。ただラストのカプリ島からの地中海の海が、『気狂いピエロ』のラストには重なるように思ったが、そういう観方も本来の映画の観方からは外れるものだろう。