ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『マジック・イン・ムーンライト』(2014) ウディ・アレン:脚本・監督

 ウディ・アレンという人を好きではないと言いながらもこうやって彼の撮った映画を観てしまうのは、やはり彼が熟練の映画監督であり、映画の「絵」として楽しませてくれることが期待できるわけだし、前に観た『それでも恋するバルセロナ』みたいに「いいじゃない!」と思える作品もあったりするわけだ。
 いつもウディ・アレンの作品には有能な撮影監督が参加しているというのも、「やはり観てみようか」と思わせられるひとつの契機ではあったりするのだが、この『マジック・イン・ムーンライト』でも、ダリウス・コンジという撮影監督がついている。この人はジャン=ピエール・ジュネの作品の撮影からキャリアを始め、デヴィッド・フィンチャーミヒャエル・ハネケポランスキーなどの作品に関わっておられる方だった。この作品では1928年を舞台に、当時のベルリン、そしてコートダジュールという背景をうまく活かしたいい絵を撮られていた。たとえその作品がドイヒーな作品だったとしても、こういう「絵」を観ることができるのが、ウディ・アレン作品を観る楽しみではあるだろう。

 さてさて、この映画の主人公は世界的に有名なマジシャンのスタンリー・クロフォード(コリン・ファース)なのだが、彼のところに旧友のハワード(サイモン・マクバーニー)が訪れ、「自分の知り合い家族(もちろんリッチである!)が<霊能者>であるという若い女性に骨抜きにされてしまっていて、彼女に財産を貢いでしまいそうだ。彼女はどうせニセモノ、ペテン師なのだが、わたしには彼女のトリックがわからない。キミなら彼女の正体を暴くことが出来るだろう、いっしょにその家族のいるコートダジュールへ行こう!」と誘うのである。
 スタンリーはコートダジュールへ行ってその女性、ソフィー・ベイカー(エマ・ストーン)に会うのだが、会ったときから自分の過去を透視されるのである。スタンリーはだんだんに「彼女はホンモノかも」と思いはじめるのだ。

 「物事には理(ことわり)がある」という合理的・冷徹な思考からこそマジックのタネを考案しているスタンリーが、コロリとだまされてしまう。これは不可解だ。
 自慢するわけではないが、わたしは観ていて「そういうことならば、そのタネはこういうことだろうが!」とわかってしまった。まあそんなことは「小話」程度の展開としていいんだけれども、わたしがなかなかに解せないのは、リッチなアメリカ人家族に取り入ることに成功し、たとえバカ息子とはいえどもその御曹司との婚約も間近いという(貧困家庭育ちの)ソフィーが、その「成功」を振り捨てて「あなたがいいわ~」と、スタンリーにラヴコールするという展開ではある。まあ世の中にはそういうこともあるだろうが、そのことがビシッと納得できるような脚本ではなかった気がする(というか、「人は富よりも大切にすることがあるのだ」という概念を、見る人を説得しようともせずに寄りかかりすぎているだろうし、スタンリーというマジシャンが、そんな「富」以上の存在だとは思えないのだ)。

 ここでこの作品撮影時のコリン・ファースエマ・ストーンの実年齢はといえば、コリン・ファースは54歳、エマ・ストーンは25歳なのである。これは日記の方にも書いたことだけれども、この年齢差はボンド映画でジェームズ・ボンドを演じていたロジャー・ムーアが、共演のボンド・ガールとの<年齢差>から「そりゃないだろ」と、ジェームズ・ボンドを演じつづけることに疑問を感じたという、その<年齢差>と同じである。

 そりゃあ「愛があれば歳の差なんて」ということはあるわけで、わたしは敢えてそのことを攻撃しようとは思わないが、この映画ではソフィーがなぜスタンリーにそんなに惹かれたかというのが、じっさいのところまるでわからないのだ(わたしが<鈍感>なのだろうか?)。
 スタンリーもまた、残して来た婚約者が存在するにもかかわらず、最終的にソフィーを求めるのである。わたしにはわからない、というか、この展開はまさにウディ・アレンの<願望>の表象化ではないかと思う。
 だから、ある作品で30歳ぐらいの年の差を越えて結ばれるカップルがあったとしても、そのことだけでわたしはどうこう言うつもりはないけれども、この映画ではまずソフィーに、「あなたはなぜ<富の約束>を捨ててスタンリーを選んだのか?」という説明というか描写があまりに不足していると思うし、同じくスタンリーに、「あなたはなぜ婚約者を捨ててソフィーを選ぶのか?」ということがしかとは納得できない。

 そもそもから言うと、<霊能力>vs.<合理的思考>という導入部の対立・対決からして、正直言ってわたしにはまるで面白いものではない。もちろん、そのことで<財>を奪われようとする富豪家族のことを考えれば深刻なことかもしれないが、この映画での<対決>はあまりにアホらしい。
 この20世紀初頭という時代、そういう霊的な事柄に対する興味というのは西欧で大きなものになっていて、たとえばこの時期のナボコフの作品にも、ひんぱんに「ウィジャボード」を使っての「降霊会」の描写は出て来る。ナボコフは<同時代人>として否定するでも肯定するでもなくそんな情景を描いているが、ナボコフの後期の作品(例えば「アーダ」など)では、そんな霊的世界のことは作品の重要な要素にもなっていたと思う。
 そういうところでも、この作品で「ペテン霊媒師」を持ち出してしまうウディ・アレンという作家は、やはり「奥行きのない、つまらない人だな」とは思ってしまうのだった。

 追記しておくと、さいしょの方でのベルリンのキャバレーのシーンで、キャバレーで唄っていたのはウテ・レンパーなのだった。もうちょっと長く彼女の唄うシーンを入れてほしかったとは思うが。