この作品のプロデューサーは、あのダリル・F・ザナックで、それだけでもいい加減な作品ではないことがわかるだろう。監督はヘンリー・キングという人で、1920年代、30年代にアメリカで最も成功した監督のひとりだとWikipediaには書かれている。わたしらが(タイトルだけでも)知っている作品として、ミュージカルの『回転木馬』、ヘミングウェイ原作の『日はまた昇る』とかがある(この2作は1950年代の作品だが)。
さて、この作品だが、アフリカのサファリでのロケの部分はオットー・ブラワーという人が監督していて、その部分にはヘンリー・キングも出演者一行もアフリカには行っていないようで、ロングショットで出演者の顔もわからないようになっているのだが、この部分でのライオンとかのショット、落雷ショット、そうして現地のアフリカ人らとの「闘争」シーンなどは今観てもすっごい迫力で、撮影も大変だっただろうと思う。
それで先に言っておくと、つい先日観たトンデモないB級映画『昆虫怪獣の襲来』は、この『スタンレー探検記』のサファリのシーンをすっかり流用(盗用?)していることがわかる。特に現地人との闘争シーンは、『昆虫怪獣の襲来』でもひとつのシークエンスとしてストーリーに組み込まれているにも関わらず、その部分のすべてがこの『スタンレー探検記』からの流用だということがはっきりとわかった。「B級」だからこその不届き極まりない行為であろう。
本題に帰って、この『スタンレー探検記』だが、原題は「Stanley and Livingstone」で、前にも書いたことだが、アフリカ奥地で、本国(イギリス)への連絡を絶ったまま行方不明になっていた宣教師で医師のデヴィッド・リヴィングストンを探し、新聞記者のヘンリー・スタンリー(スペンサー・トレイシー)がアフリカ奥地へ向かうというストーリーが根本。
彼の勤める新聞社(ニューヨーク・ヘラルド紙)のオーナーの要請もあり、1871年の3月に彼はザンジバルに到着するが、長い苦労の続く旅の末、その年の11月に内地のタンガニーカ近くでリヴィングストンとめぐり合うわけだ。このときにスタンリーがリヴィングストンに語った「Dr. Livingstone, I presume?」は、昨日書いたように「名セリフ」として今に伝えられている。
ここで、しばらくリヴィングストンと共に生活したスタンリーは、リヴィングストンが執着する「ナイルの源流を探る」ことに理解を示すし、それまでアフリカの現地人に抱いていた差別感もやわらぐことになる。
このあたりは、オープンセットで撮影しているのだろうが、非常にしっかりした演出になっている。
現地に残るというリヴィングストンと別れ、スタンリーはイギリスへと戻り、そこで「生存するリヴィングストンと出会った」と発表するのだが、その言説を疑う連中は多く、ついにはイギリスの「王立地理学協会」で査問会が開かれることになる。
ここで彼の発表を「虚偽」だという人々に、スタンリーは長い長い感動的なスピーチを行うのだ。
ちょびっと、このあとの展開はわたしが調べたスタンリーとリヴィングストンの「その後」と食い違うところもあり、映画としての脚色もあったようだが、なかなかドラマティックな展開にはなっている。
ラストに、リヴィングストンの遺志を継いでまたアフリカに渡ったスタンリーの冒険が要領よく語られるが、じっさいのところではスタンリーは「奴隷貿易」に加担した疑いもあり、コンゴ自由国建設などの際の暴力的行為の責任を問われてもいたわけで、死後そのことを理由にウェストミンスター寺院への埋葬を拒否されているという(Wikipediaによる)。
それでもこの映画、まだアフリカが「暗黒の大陸」と呼ばれていた時期の、現地に赴いていた人道家、そして探検家の行動の一端を教えてくれるものとして、わたしには有益な作品ではあったし、今でもかろうじて入手可能のスタンリーの著作の邦訳を読んでみたい、とも思うのだった。と同時に、昨日観た『昆虫怪獣の襲来』から、「いやはや、1950年代のアメリカのB級映画とはトンデモないものだったのだなあ」とも思うのだった。