本編が始まる前に、レオス・カラックス自身が登場する導入部がある。ベッドで犬と共に寝ていたカラックスがベッドから起き、部屋の中をさまよう。カラックスの右手中指の先は金属の棒になっていて、「鍵」になっているようだ。壁の中にある「鍵穴」にその指の鍵を差し込み、壁を押し破るとその先は広い映画館の観客席を背後から見下ろせるフェンス上段になっている。満員の観客は何か上映されている映画を観ているのだろう。カラックスはそれを上から見下ろしている。画面にはマイブリッジの撮った、運動する男性の短い映像が挿入される。
本編の主人公を演じるのはドニ・ラヴァンで、エディット・スコブの運転する長い長い車体のリムジンに乗り、映画内のその日一日を通して、パリ市内のさまざまな場所でその衣装、容姿を変えながらさまざまな役を演じて行くことになる。それはほとんど、映画に出演する役者がかけもちをしながらあちこちに移動して行くようではある。そして、ドニ・ラヴァンが扮装して演技をする各パートは、それぞれが「映画」という世界のさまざまなジャンルをあらわしているようだ。それはSFXを駆使した映像による作品だったり、「怪獣映画」(ゴジラ!)であったり、墓場を舞台とした怪奇幻想映画風であったり、ギャング映画であったり、父親と娘とのシリアスな対話、男の臨終のシリアスな場面、そしてミュージカル、音楽映画であったりもするだろう。
わたしはちょうど今、ジョイスの『ユリシーズ』を読んでいるのだけれども、『ユリシーズ』はダブリンの街をさまようレオポルド・ブルームという男を中心に、1904年6月16日の一日間のダブリンを多層的に描き、とりわけさまざまな文学的世界観から世界を眺め、さまざまな文体を使用することで「文学史」そのものを一篇の小説として提示する試みとも解釈できると思うのだが、それでこの『ホーリー・モーターズ』を観て、この作品は一面でそんな『ユリシーズ』的試みの映画版、と考えられるのではないかと思うのだった。
『ホーリー・モーターズ』では撮影場所はどこまでも「パリ」にこだわり、レオポルド・ブルーム的で狂言回し的主人公をドニ・ラヴァンが演じる。そしてさまざまなシークエンスは、ジョイスが『ユリシーズ』で章ごとにさまざまな文体を使い分けたように、さまざまな「映画史」「映画ジャンル」を横断するものとして、観るものを「映画的世界」の中に迷い込ませるような作品ではないかと。
そして、そのようなある意味でとりとめもない「断片」の集積とも言えるようなこの作品を、力強くも説得力のあるものとし得たのはやはり、レオス・カラックスの卓越した演出力、脚本のちからだっただろうと思う。
このような作品を撮るということは、まずは表現としても「映画」というものをいちど解体し、そこから再構築するという作業が要求されることだろう。
映画の中で真夜中になり、ドニ・ラヴァンは「この日のアポ(それぞれの現場のこと?)は皆終わった」と自宅へ帰って家族と会うのだが、その妻と子供らはチンパンジーであり、映画の冒頭で彼が「行ってきます」とあいさつした妻子ではない。これはつまり、「アポ」はまるで終わってはいなくって、まだまだ継続中なのだ、ということなのだろうか。
運転手だったエディット・スコブはリムジンを「ホーリー・モーターズ」という建物の車庫に格納し、自分の顔に仮面をはめて帰って行くのだけれども、この「仮面」はエディット・スコブがかつて出演した『顔のない眼』で彼女がかぶった「仮面」なのである(わたしは『顔のない眼』をじっさいに観た記憶はないけれども、この映画の仮面のヴィジュアルは何度も目にする機会があり、よく記憶している)。このこともまた、彼女にとって「運転手」の仕事が終わったあとに退出する世界とはまさに「映画」の世界であることを暗示している。
それは冒頭のレオス・カラックスが目覚めるシーンからして、実はそこから「夢」としての「映画」が始まっていたのだ、ということでもあったのだろう。
人間の去ったあと、リムジンが何台も並んだ格納所では、なんとリムジンたちが「くたびれたぜ!」みたいな会話を始める。リムジンたちは人間たちのことを語り、「人間はもはや行為を望まない」ということばでこの映画は終わる。
このような意味深なセリフは映画中にちりばめられていて、「カメラが大きかった時代がなつかしい」などというセリフからは、この映画がSF的に、最小化されて目に見えなくなったカメラで撮影されていることが暗示されていたようにも思う。「美しさ、それは見るものの瞳の中にあるという」「見るものがいなければ?」というようなセリフにも、この映画を考えるヒントがあるだろう。
もともと寡作であるレオス・カラックスだけれども、ここまでに一度映画というものを解体・再構築するという作業をやってしまうと、もう新作を撮るというのは困難ではないだろうか、レオス・カラックスにとって、「映画作家」としてのキャリアはこれで終わりなのかもしれない、とは思った。
それは、デイヴィッド・リンチの『インランド・エンパイア』を観たとき、「ああ、ここまでやっちゃうと、もうデイヴィッド・リンチは長編映画を撮ることはないんじゃないだろうか」と思ったことにも似ている気もちではあった(ちょっと違うことはわかっているけれども)。