ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『黄金の眼に映るもの』カースン・マッカラーズ:著 田辺五十鈴:訳

 ほんとうは、ウチにあるはずの同じカースン・マッカラーズの『心は孤独な狩人』(旧訳)を読むつもりだったのだけれどもその本が見つからず、本棚の隅にあったこの文庫本を読んだ。150ページほどの薄い本だけれども、仕事の合間などにちょっとずつ読み進めてずいぶん時間がかかってしまった。というか、最初の方のことは読み進めるうちに忘れてしまっていたりする。

 この『黄金の眼に映るもの』は『心は孤独な狩人』に続いて発表された、マッカラーズ24歳のときの作品。原題は「Reflections in a Golden Eye」で、1967年にジョン・ヒューストンの監督で邦題「禁じられた情事の森」として映画化されている。なんと主演はエリザベス・テイラーマーロン・ブランドだった。ちなみに『心は孤独な狩人』も翌1968年に映画化されていて、邦題は「愛すれど心さびしく」。こちらはソンドラ・ロックのデビュー作でもある。

 『心は孤独な狩人』の内容は少し憶えていて、それはけっこうネガティヴで、精神的に残酷な作品だったと思うのだが、この『黄金の眼に映るもの』もつらい。
 舞台はアメリカ南部の陸軍駐屯地で、そこの隣り合った家に住む大尉と少佐との二組の士官夫婦と、少佐夫人に仕える若いフィリピン人の男、宿舎の一等兵兵士の六人、そして一頭の馬だけの物語である。
 大尉夫人は男好きのする奔放な女性で、実は隣家の少佐と堂々と自分の家で会い、不倫関係にある。というか、毎夜のように少佐夫妻は大尉家を訪れてトランプゲームなどをやっている。大尉は自分の妻が少佐と関係を持っていることを感づいてはいるのだけれども、彼女のなすがままにまかせているようだ。少佐夫人は夫のことを知っていて悩み、神経衰弱気味であり、離婚を申し出ることを考えている。
 一等兵兵士はふだんは大尉夫人の馬の世話をしているのだが、あるとき大尉の家の庭を片づける仕事をやらされ、そのとき、夜になって家の中を裸で歩く大尉夫人を盗み見し、それ以来ときどき宿舎を抜け出して大尉の家を覗き見するのだが、ついには家の中に忍び込み、寝ている大尉夫人のそばで彼女をずっと見ていたりする。

 大尉夫人は、いってみれば「空っぽ」の人間である。そして夫である大尉の内部では一等兵兵士に対して奇妙な衝動が芽生え、妻の馬を乗り回したり宿舎周辺を歩き回ったりの行動をする。
 少佐夫人は夫の不倫もあり、周囲の歪んだ空気を一身に引き受けているようなところがある。夜中に隣家に一等兵兵士が忍び込むところも目撃し、精神の均衡を失ってフィリピン人青年の付き添いで施設に送られ、そのあとすぐに死亡してしまう。
 少佐夫人がフィリピン滞在時に、周囲からいじめられていた少年をそのまま連れ帰り、彼に召使以上の待遇を与えていて、夫人は夫と別れたあとにはそのフィリピン人青年と別のところで店を開こうかとも思っていたのだが、夫人の死後すぐに、その青年も施設を出て行方不明になってしまう。このフィリピン人青年も奇妙な存在で、少佐夫人に忠誠をつくしながらも奇妙な論理を展開して語り、夫である少佐には「いやがらせ」のような行為をしたりもする。
 一等兵兵士もまた、そのときの衝動だけで動いてしまうような人間で、それはある意味で「夢遊病者」的といってもいいだろう。

 この6人の暮らす世界は、コミュニケーション不在の世界であり、誰も他者のこと(精神)を理解していないし、また、理解しようともしない。そして「衝動」でしか動かない。
 この小説のラストはある意味で「悲劇」ではあるのかもしれないが、けっきょく互いが互いの精神になど何の興味も持っていないのだから、誰かが死んだからといって、そこでは何も変わらない世界がつづいて行くだけなのだろう。おそらくは大尉も、自分の中に隠されていた衝動に気づくこともなく、それまで通りの生活をつづけて行くことだろう。
 いわゆる通常の「日常生活」とはどこか違った、「軍隊の駐屯地」という環境こそが人々の精神を歪ませたのかとも思える。また、これはまさに「アメリカ的」な歪みであって、ヨーロッパ的風土からは生まれないものないかと思うのだけれども、わたしはフォークナーとかスタインベックとかを読んではいないので、じっさいそういうところは何とも言えない。

 こういう、マッカラーズの「グロテスク」な精神の世界をもう少し読んでもいいなと思い、Amazonでチェックしてみたのだけれども、たいていの本が絶版になっているとはいえ、マッカラーズの著作自体が少ないので、集めようという気になれば集められそうだ。ただ、このわたしの読んだ『黄金の眼に映るもの』に、3万円近い価格が付けられていたのにはおどろいてしまった。