ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『心は孤独な狩人』カースン・マッカラーズ:著 河野一郎:訳

心は孤独な狩人 (新潮文庫)

心は孤独な狩人 (新潮文庫)

 1940年、著者22歳のときに出版された、著者の長編デビュー作。南部の小さな町で、そこに住む聾唖者のシンガーという男のところに、町の4人の人々がかわるがわるに訪れる。皆がシンガーに「何か」を期待している。というか、皆が「彼なら自分のことを理解してくれている」と思い込んでいるのだ。

 シンガーにはかつて、生活を共にするやはり聾唖のギリシャ人の友人があり、職場こそ違えども二人はいつもいっしょなのだった。シンガーの友人に寄せる友情は、それこそが彼の全世界ともいえるほどに大きなものだ。しかし精神を病んでいたギリシャ人の友は離れたところの病院に収容され、一人残されたシンガーは町の中の下宿アパートに転居して一人暮らしを始める。
 シンガーに興味を持って惹かれるのは、その下宿アパートの家主の三女の13歳のミックであり、町で黒人の地位向上を望んでいる医師のコープランドであり、どこかから町に流れてきたルンペンで「扇動家」のジェイクであり、シンガーがいつも食事したりコーヒーを飲んだりして時を過ごすカフェのオーナーのビフ、という面々だ。
 シンガーは聾唖ではあるけれども読唇術はできるので、特にミックやジェイクは自分の思いのたけをシンガーにぶっつけ、「ここに自分のことを理解してくれる人がいる」と思い込もうとする。

 物語の背後には、当時のアメリカの社会事情、特に南部での貧困、そして虐げられた黒人たちの問題がある。この小説は「そこまで些細なことまで書くか」というような、ディテールをぎっしり詰め込まれた作品なわけだけれども、読み終わってみると、それらのディテールがしっかりと生かされていたのだろうかとは思うことになる。
 シンガー以外の登場人物は、そんな狭い「南部社会」の中で、他者との交流の中、接した外社会への思いの中でそれぞれの「生き方」を模索していて、そのことはこの作品の中でたっぷり描かれているのだけれども、ただシンガーだけは、「そこに居る」だけの存在と言ってもいい。シンガーが自分の生きる社会の中で、彼のところにいろいろと話をする人たちのことをどう思っているのかは実はわからない。ただ、シンガーは皆にうなずいてみせるだけ、皆のすべてを肯定している存在のように思える。

 実は読んでいる自分もまた、登場人物らの「葛藤」を感じ取りながらも、それらを受け止めるシンガーの存在をどこかで理想化してしまうところもあるだろう。しかし、中盤にシンガーが入院している友人に書こうとする手紙(じっさいには投函しないのだが)で、シンガーはまったく誰にも感情移入などしていないことはわかる。シンガーの中には、離れて暮らすギリシャ人の友のことしかない。あとのことは実は「わけがわからない」のだ。

 ミックは少女期から成長しようとする時期で、「音楽」を自分でつくる夢を持っている。ここで、ミックが主催したパーティーで、皆がいなくなった深夜に、隣家のラジオから聞こえてくるベートーヴェン交響曲を耳にした「感動」を描いたページが素晴らしく、「やはりこれだけの細かいディテールも必要なのか」とは思ったりする。彼女も「うまくいかない」初恋や、家族の貧困化などの問題をかぶり、成長して行きながらも「社会」の中でどうやって行くのか、という問題とはぶっつかっているだろう。彼女にはシンガーの存在にこそ、自分が頼るものがあると思う。
 医師のコープランドは自分の息子、娘らに自分の期待を託したいのだが、そんな父に反撥する子供たちは彼に寄りつかなくなる。彼には彼の「理想」があるのだが、それはシンガーなら理解してくれているのかもしれない。
 ジェイクは言ってみれば「ヤクザ」みたいなヤツなのだけれども、現世界の汚辱は意識していて、人々に「真理」を教えたいと思っている。
 この作品の中に、コープランドとジェイクとの「対話」が描かれているのだけれども、実はけっこう近い「理想」を持っていると思われるこの二人が、いっとき接近しながらも、やはり和解し合えない過程は面白い。
 ここでコープランドが目指す「黒人の地位向上」とは、もっと後の時代の「公民権運動」そのままだし、「黒人みんなでワシントンへと行進するのだ」という「夢」は、まさに20年後にキング牧師がやったことを予言しているわけだ。このあたりの作者のマッカラーズの社会意識は大したものだと思う(ここでのコープランドは「挫折」するわけだけれども)。

 実はカフェのオーナーのビフは、どこかでシンガーの視点を引き継いでいるようなところがあり、シンガーの死後、「町を出て行く」というジェイクに「軍資金」とでもいえるような金を持たせたりもする(ビフは密かに、少女のミックに惹かれていたりもするのだが)。

 先に書いてしまったが、シンガーは遠隔の地で入院しているはずのギリシャ人の友人の見舞いにいろいろなプレゼントを携えて訪れるのだけれども、そこでその友人の「死」を知らされ、町に帰ってすぐに、自分の胸を銃で撃って自殺するのである。
 わたしはこうなることは、昔にこの本を読んだ記憶からわかってはいたのだけれども、おそらくはわかっていたからこそ尚更にショックを受け、しばらくは読んでいた本を置いて顔を手で覆い、ほとんど声を出すほどに泣いてしまったのだった。
 それはおそらくは、読んでいく過程でわたしもなお、シンガーという存在に何かを託してしまっていた結果だろうとは思う。そして読み終わった今、それは「わたしの弱さ」だっただろうとは思うのだった。そういう意味で、ジャンルとしての「文学」の中でどうのこうのというよりも、読む人の心の位置を測るような本ではないのかと思った。

 なお、この小説は1968年にロバート・エリス・ミラーという監督によって映画化されていて、シンガーをアラン・アーキンが演じ、ミックの役はソンドラ・ロックが演じることになり、これが彼女の映画デビュー作となり、アラン・アーキンと共にその年のアカデミー賞にもノミネートされたのだった。あと、ジェイクはステイシー・キーチが演じていたようだ。実はこの撮影時にソンドラ・ロックはすでに23歳になっていて、原作のミックの「13歳」との設定との乖離は大きいのだが、いちおう「14歳」ということでやってしまったようだ。多少は大人びてしまったためか、彼女のパートのストーリーはけっこう原作から変えられてしまっているみたいだ。

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 日本でも『愛すれど心さびしく』のタイトルで公開されていて、わたしはひょっとしたらこの映画、映画館で観ているかもしれない。今でもDVDは入手できるようだ。買ってみようかしらん。