1979年にジェイムズ・ボールドウィンが書き始め、30ページで中断した「Remember This House」という原稿を基に、フランス、アメリカ、ベルギー、スイスによって共同製作されたドキュメンタリー。公民権運動の時代、メドガー・エバース、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア、そしてマルコム・Xの活動に焦点をあてながら、アメリカ合衆国の長い長い、今なお「Black Lives Matter」運動にあらわれる人種差別の歴史を掘り起こす。ナレーションはサミュエル・L・ジャクソンによる。
それまでフランスで生活していたボールドウィンは、「黒人問題を考えるには帰郷しなければならない」と考え、アメリカへと戻るのである。
ここでまず映画は「リトルロック高校事件」を取り上げ、実はリトルロックではないノース・カロライナで高校に登校しようとするドロシー・カウンツという女性(少女)をとらえた写真を取りあげる。この写真は毅然とした表情を示すドロシーと、それとは対照的に彼女をののしる周囲の白人たちの醜さとで際立った写真だ。
ここでわたしはちょっと脱線するが、その「リトルロック高校事件」と、このノース・カロライナのドロシー・カウンツとのことを検索すると、意外にも京都大学の学術情報サイトがひっかかり、そこに大形綾という方の執筆した<「リトルロックに関する考察」再考 --アメリカ黒人の文化的伝統に対するアーレントの理解と誤解-->という論文(PDF)を発見した。これはハンナ・アーレントが書いた「リトルロックに関する考察」を分析し、アーレントの中の「理解と誤解」を論じたものだった。
この映画とは直接には関係ないのだが、「リトルロック高校事件」とはどういうものだったのかを含めて、改めて読んでみたいと思い、ここにリンクさせておきます。
「リトルロックに関する考察」再考 --アメリカ黒人の文化的伝統に対するアーレントの理解と誤解--
映画のことに戻るけれども、この映画には多数の過去の映画作品のフッテージが引用されているが、それはアメリカ映画の中で「どのように黒人たちが描かれてきたか」ということを示すもので、とっても興味深い。じっさいにはこの部分のボールドウィンのテキストは彼の別の著作『悪魔が映画をつくった』から引かれているようだけれども、彼が見てきたアメリカ映画の記憶から、映画の中の黒人像を分析する。
初期の映画では脇役的な存在の黒人らはただ「こっけいな」役割を果たすだけだったりするが、例えば『キング・コング』では秘境の孤島という設定とはいえ、有色人種が白人女性を拉致するという、白人らにとっては「有色人種(=黒人)、怖い!」という「悪夢」を現前させているわけだろう。
それがシドニー・ポワチエなど黒人でも「演技派」といえる俳優が抬頭してくると、白人が望む「素直でおとなしく、礼儀正しい黒人」という存在が描かれるようになる(例えば『招かれざる客』)。そしてシドニー・ポワチエがトニー・カーティスと共演して評判になった『手錠のままの脱獄』では、逃走のために先に列車に飛び乗ったシドニー・ポワチエがトニー・カーティスに助けの手を差し伸べるが、「助けられない」とみると、シドニー・ポワチエもせっかく飛び乗った列車から飛び下りるのである。ここで一般の白人の観客は「シドニー・ポワチエはいいヤツだ」と思うのだが、しかしこの映画を観た黒人観客は「なんでシドニー・ポワチエはトニー・カーティスをほっといて逃げなかったんだ!」と不満を感じるのだ。しかし、ボールドウィンもこのあとのシドニー・ポワチエ主演の『夜の大捜査線』は評価しているようで、ラストでロッド・スタイガー(映画の最初では強烈なレイシストだった)がシドニー・ポワチエと別れる駅のシーンで、握手したあとに「気をつけてな」とポワチエに語るのを、「あれは一種の<キスシーン>で、和解なのだ」とコメントしている。わたしも昔観たこの映画のことを思い出し、もういちど観たくなってしまった。
しかしボールドウィンもジョン・ウェインなどには辛辣で、映画の中で先住民を殺しまくったジョン・ウェインは「成長しない男」と切り捨てている(じっさいにジョン・ウェインはある意味<極右>的生き方をした人物だった)。
そういう<映画ファン>という視点からの意見はさておいて、<アメリカ合衆国>という国の発展は、さいしょは<奴隷>として、奴隷解放後も<安い労働力>として利用したことに恩恵を得ているわけだけれども、白人はいつまでも黒人と融和することを拒んできた。それはボールドウィンの分析では「自分の心の生み出した幻影に怯えている」のではないかという。
ボールドウィンは「わたしはニガーではない。白人がニガーを生み出したのだ」というが、それはまさにその通りだろうと思う。
この21世紀になっても、いまだ「ジョージ・フロイドの死」のような理不尽な事件を起こしているアメリカだが、この映画の中の黒人の抗議運動の写真の中にすでに、「Black Lives Matter」のメッセージは読み取れるのだった。ちょっと導入部から期待してしまったメドガー・エバース、マーティン・ルーサー・キング、マルコム・Xらの遺族らの映像はなかったけれども。
この日本でもまた、朝鮮を支配して朝鮮の人々を奴隷同然に酷使した歴史を持ちながら、その歴史を学ぼうとも反省しようともせず、半島の人々を侮蔑する人々の絶えることはない。つい今現在も、日本のDHCという化粧品メーカーが、自社のHPに在日朝鮮人に対して差別的な文章を掲載し、そのことをNHKが報道したことに対しての反論として「NHKは日本の敵です」などと掲載している。そしてこのことを報道した「ハフポスト日本版」のヤフー掲載記事に対して、コメント欄(いわゆる「ヤフコメ」)には、「嫌韓」コメントにあふれかえっている。どうやら日本はどこまでもアメリカをコピーし、60年とか70年前の<レイシズム>を再現しようとしているようだ。
「こんなこともあった」などというのではなく、まさに今だ「現在進行中」のことの奥底を描いたドキュメンタリーとして、とても重要な作品だと思った(わたしは、「黒人」という表記の仕方には疑問もあって、ほんとうは「アフリカ系アメリカ人」とかにしたかったのだけれども、この映画の内容にならってというわけでもないけれども、「黒人」という表記を多用いたしました)。