ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『オルメイヤーの阿房宮』(2011) ジョセフ・コンラッド:原作 シャンタル・アケルマン:脚本・監督

 原作はジョセフ・コンラッドの最初の長篇小説「Almayer's Folly」(1895)で、直訳すれば「オルメイヤーの愚行」。ではこの邦題の「阿房宮」とは何かというと、これはかつて秦の始皇帝が建設しようとした大きな宮殿の名で、今ではこの「阿房宮」という言葉が「阿呆(あほう)」の語源になったといわれている。
 そういうところから、この作品の主人公のオルメイヤーも東南アジア亜熱帯ジャングルに夢見たものがあったわけだから、それを「阿呆」とかけて「阿房宮」と訳すのも「うまい訳だね」といえるかもしれない。実はこの邦題はこの映画のためのものではなく、それ以前に、この原作が翻訳されたときの邦題とされたものなのだった。

 原作はマレーシアで海賊の隠された財宝を捜すオランダ人の話らしいのだが、カンボジアで撮影されたこの作品では場所はどことも特定されず、オルメイヤーが捜すのも「海賊の宝」ではなく「金鉱」のようだ。時代は1950年代のことにされていて、描かれるのは先日観た『囚われの女』みたいに「ひとりよがりの愛情」の話ではあっただろうし、さらに「人種差別」の問題であり、「植民地主義」のことでもあるだろう。

 東南アジア奥地の河畔の家屋に住むオルメイヤー(スタニスラス・メラール~彼はアケルマンの『囚われの女』でも出演していた~)は、一獲千金を夢見てそんな奥地の金鉱の知識のあるらしいリンガード船長にいわれるまま、現地の女性ザヒラと愛のない結婚をし、ニナ(オーロラ・マリオン)という混血の娘を授かり、自分はニナのみを愛していると思っている。そしてオルメイヤーはリンガード船長の勧めと援助を受けて、成長した娘のリナに白人としての教育を受けさせるため、港の白人のための寄宿学校に彼女を入れる。リンガード船長はオルメイヤーにニナと共にヨーロッパへ戻れというが。
 しかしリンガード船長は病死し、船長を通じての学費の支払いの滞ったニナは学校を退学させられる。退校後、何もしないでフラフラしていたニナは、以前から知っていたグエンという男とめぐり合う。
 森の中でやはりグエンと出会ったオルメイヤーは、グエンと共に金鉱探しをつづけようと思うが、オルメイヤーの使用人は「グエンは反体制ゲリラで警察に追われているから関わらない方がいい」という。
 グエンはニナに「オルメイヤーや白人らから離れ、自分といっしょに行こう」と誘い、母のザヒラも「グエンと行くといい」という。ニナは彼のことを愛しているわけではないが承諾する。オルメイヤーはライフル銃を持ち出して阻止しようとするが、ニナに「父さんの愛は言葉だけ、わたしが白人たちの中でどんなにつらかったかわかっていない」「私は父さんのような白人たちに拒否されつづけてきた」「今はデインがわたしを必要としている」と語り、さいごにオルメイヤーも「わたしに娘はいないことにしよう、こんなつもりで育ててはいない」と、2人を船の来るところへ送って行くのだった。

 実は映画のファースト・シーンはそのニナとデインがオルメイヤーと別れたあとの話で、以前リンガード船長のもとで働いていた現地人が、夜の盛り場のネオンまばゆい店に入って行く。奥のステージで、一人の男がマイクを持って流れているディーン・マーティンの「Sway」に合わせて、自分が歌っているように「口パク」をやっていて、その後ろに4人の女性が並んでかったるい踊りを踊っている。男はステージに上がり、マイクを持った男の胸を刺す。ステージには一人の女性だけが残り、「ニナ、デインは死んだ」という声が聞こえる。
 刺されたのはデインで、ステージに残った女性はニナだった。ニナはカメラへ近づいて行き、その顔のアップ映像で満面に幸福そうな表情を浮かべ、そこでモーツァルトの讃美歌「アヴェ・ヴェルム・コルプス」を歌うのだった。

 このファースト・シーンは、さすがに全篇観たあとでないと意味不明なところも多く、いちおう全部観終わったあとにもう一度観たのだった。このシーン、時系列順に映画のいちばん最後に持って来てもいいじゃん?とか思ったのだったが、監督はこの映画のラストは「焦燥したオルメイヤーの表情を長回しでとらえる」ことにしたのだろう。それはそれでよく理解できる。

 ファースト・シーンのことをもうちょっと書けば、デインとニナは「白人らから逃れた」はずだったのだけれども、ここでデインは「白人の歌う音楽を口パクで模倣する」という、まさに植民地主義に毒された人間に堕ちてしまっていたわけだ。ニナはしょうがなくデインにしたがっていたのか、「デインは死んだ」と目の前でみて、そこでようやく「白人ではないが、白人の教育を受けた人間」としての自分を認められ、ついに自立できたのではないだろうか(この解釈は危ういが)。

 シャンタル・アケルマンの演出はもう徹底して「長回し」を多用し、同時に横移動カメラも多く使用していた。わたしは寄宿学校を放校になったあとのニナが、夜の街を彷徨する長いシーンが美しくもあって印象に残ったし、もちろんラストのオルメイヤーの、セリフもほとんどなく、ただ彼の表情のみを追う長い長い映像も心に残った。

 なんか、ストーリーを追って書いてたらそれだけで疲れてしまって、ちゃんとした「感想」も書けないままになった気がする。あとで加筆するかもしれない。