ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『アラバマ物語』(1962) ハーパー・リー:原作 ロバート・マリガン:監督

 原作は1960年に発表されたハーパー・リーによる小説で、1961年にはピューリッツァー賞を受賞し、ベストセラーになったが、この映画はピューリッツァー賞決定前に映画化権を得ていたらしい(ハーパー・リーはこの時期トルーマン・カポーティの『冷血』の取材を手伝ったことでも有名)。
 この映画のプロデューサーのアラン・J・パクラは後に自ら映画監督として有名になるが、この時期は監督のロバート・マリガンと組んで多くの作品を製作していた。

 映画は今なお多くの賞賛を集めていて、Wikipediaによると2003年にアメリカン・フィルム・インスティチュートが選んだ「アメリカ映画100年のヒーローと悪役ベスト100」で、この映画の主人公、アティカス・フィンチ(グレゴリー・ペック)がヒーロー部門第1位に選ばれたのだという。グレゴリー・ペックといえばこの『アラバマ物語』ということで、この作品は彼の代表作なのだ。

 物語は1930年代アメリカ南部、アラバマ州の架空の田舎町「メイカム」が舞台。そこに住む弁護士のアティカス・フィンチの一家を中心として進行する。アティカスは妻と死別していて、スカウトという娘(6歳?)とディムというその兄(10歳)との3人家族である。
 映画の主題のひとつは、その1930年代当時のアメリカ南部の「人種差別」の問題なのだが、この映画が製作された1962年というのは、ようやっと「公民権運動」の盛り上がりをみせた時であり、マーティン・ルーサー・キング牧師の「ワシントン大行進」は翌1963年8月28日のこと。じっさい、この作品の主役のアティカスには最初ジェームズ・スチュアートがオファーされたのだが、もともと保守的な思想の持ち主であるジェームズ・スチュアートは、「この映画は物議をかもすおそれがある」と出演を断ったのだという。

 わたしはこの作品は「法廷ドラマ」だろうという、漠然とした前知識しか持たないで観始めたのだが、映画はアティカスの娘のスカウトの視点から、スカウトと兄のディムとの日常の遊び、アティカスとの家族の暮らしを描くことに終始し、なかなかに「法廷」での展開にはならないのだった。わたしはもう、途中で「これは法廷だけをフィーチャーした映画ではないんだな」と了解はしたけれども。
 映画は最初から最後までほとんど「スカウトの視点」を外すことはなく、メインの法廷シーンでも、スカウトは兄といっしょに裁判所の2階で傍聴していたのだった。

 そのメインの裁判は、被告はトム・ロビンソンという黒人の青年で、近所の若い女性メイエラ・ユーエルを暴行したとして訴えられている。映画では前後の取り調べの様子などは描かれず、いきなり法廷のシーンになる(ただその前に、拘置所に拘置されたトムを白人の町人が襲うのを防ぐため、アティカスが拘置所の前で夜を明かすシーンがあるが)。

 アティカスの弁護のやり方は、証言を組み立てれば、自然とトムがそんな犯行を起こしていないことが了解されるようなやり方で、実は父親ボブ・ユーエルによるDVらしいのだが、法廷で「真実はこうだったんじゃないんですか?」などと追及するようなことはない。
 弁護は説得力のあるものだったが、けっきょくトムは有罪とされる。判決が下されたあと、トム・ロビンソンは逃亡を企て、警官に射殺されてしまう。

 裁判のシーンを観ていて、「もしもこれで正しくトムは無罪となっても、そのあとが大変だろうな」とは思えた。トムが無罪であれば、メイエラが暴力を振るわれていたのは確かなのだから、裁判でのアティカスの追求からも、父のボブが犯人だと誰もが思うことだろうし(裁判が終わったあと、ボブはアティカスの顔につばを吐きかける)、現実にはトムを誘惑していたメイエラにも批判の目が向けられることだろう。いや、そうであっても、町人の「黒人差別」の心情はそれで治まるだろうか。そういうことはどうなるのだろうと思って観ていたが、けっこう思いがけない結末が待っていたのだった。

 裁判のあとしばらくして町のハロウィン・パーティーの夜、ディムとスカウトは夜道をパーティー会場へと歩くのだが、そこでディムが何者かに襲われて倒れる(これはボブの仕業だった)。さらにその現場に見知らぬ男があらわれ、ボブに立ち向かい彼を倒し、ディムをアティカスの家へ抱いて行くのだった。
 その見知らぬ男は、ディムとスカウトが前から気にしていたがその姿を見たことがなかった隣家のボーだった(ボーを演じていたのは、これが映画初出演だったロバート・デュヴァルなのだったが)。ボーは何らかの障碍があるかで引きこもっていて、アティカスは「かわいそうな人なんだから」とは話していたのだ。
 ディムは腕を骨折していて、アティカスは医師と親しい保安官とを呼ぶのだが、保安官は現場にナイフで刺されたボブの遺体があったと語るのだった。
 前後のいきさつから、ボーがやったことに間違いはないのだが、アティカスは「ボーを犯人として逮捕するわけにはいかないだろう」という。保安官は「いや、ボブは自分で転んで、自分の持っていたナイフが刺さって死んでしまったんだよ」というのだった。

 まあ、主人公のアティカスという人物、ちょびっとばかし「人間出来過ぎ」ではないかという気はしたが、1930年代という時制の中での最初の事件、そして裁判、そしてその後の事件と、けっこう説得力のある展開だったとは思う(惜しむらくは、あれだけ裁判所の2階傍聴席に町の黒人らが押しかけていたというのに、そんな黒人らの裁判への反応とかは描かれなかったことか)。

 最後にちょっとうるっとくるオチがあって、ディムとスカウトは家のあたりで遊んでいるとき、いつも隣家との境にある木のうろにいろんなもの(石鹸でつくった人形、メダル、ポケットナイフなど)を見つけ、スカウトは大事に箱にそれらをしまっておいたのだけれども、それは実はボーが木のうろに入れて置いてくれた「プレゼント」だったのだ。