ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『野火』(2015)大岡昇平:原作 塚本晋也:製作・脚本・撮影・編集・監督・主演

  

 大岡昇平の原作は読んでいないし、1959年の市川崑監督による映画も観てはいない。
 塚本晋也監督は、この『野火』の映画化の構想を20年抱いていたという。実はもっと大作にしたかったというが、出資者が集まらずにけっきょくは「自主製作」となったらしい。それでも作品はほとんどのシーンがフィリピンでのロケ撮影によるもののようだ。

 舞台は第二次世界大戦末期のフィリピン、レイテ島。もう日本軍の敗色は濃厚で、「軍」としての体裁もなしていないようだ。主人公の田村一等兵は肺を病んでいて、所属部隊から「野戦病院へ行け」と追い出されるようにされるが、その野戦病院でもすぐに「もう部隊へ帰れ」と放逐されることを繰り返す。ただ「食糧」の奪い合いのような部隊生活。一人部隊をはぐれた田村は村の教会を目にして行ってみるが、そこに若いフィリピン人の男女がやってくる。田村はただ、食糧の芋を食べるために「火」が欲しいだけで、二人に「マッチをくれ」と銃を向けるのだが、女の方が叫び出したために彼女を撃ってしまう。マッチは手に入らないが、このときに入手した「塩」はあとで日本兵との交渉の役に立つ。
 やがて日本兵らは米軍の機銃掃射を受けて多くが死に、散り散りになってしまう。田村が出会った二人の日本兵は「猿の肉の干物」というものを食べていたが、その「猿」とは「人間」なのだった‥‥。

 原作では主人公は「狂人」という設定にされているらしいが、この映画では、主人公は登場する日本兵らのなかでももっとも冷静でいるようにみえる。
 そういうところで、この理不尽な戦争で理不尽に徴兵された男(たいていの日本兵は皆そうだろう)の、「野垂れ死に」一歩手前で彷徨する姿、その「恐怖」や「狂気」というものが映画から伝わってくることがなく、逆に「なぜか美しい」フィリピンの自然の色彩の中で、観ているわたしの気もちは画面からは離れて行ってしまうのだった。
 だからラストの、田村が若い日本兵を撃ってしまうというシーンにしても、それが「戦争」ゆえのこととしてではなく、もっと「人間ドラマ」の終局、としてのシーンに見えてしまったのだった。

 わたしがこの映画に期待したのは、もしもわたし自身がそんな「とんでもない戦場」のなかに放り出されたとき、わたしのメンタリティーがどのような動きをするだろうかを見たいということだったのだが、観始めてしばらくしてわかったのは「ああ、オレはここで間違いなく死んじゃうよな」ということだった。死ぬも生きるもすべてちょっとした「偶然」のなせること。「勇気」があったからとか、「根性」を持っていたなどということは関係ない。むしろ「卑怯者」である方が、生き残る確率は高いのだろうか。
 こういう「モラルなき世界」を「狂気」ということは出来るだろうが、ただ主人公が「正気」に見えるということが、この映画の持つべきインパクトを弱めてしまっているのではないか、そう感じてしまったわけだが、このこともまた、今のわたしの体調がよろしくないことに引きずられているせいなのかもしれない。