ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『硫黄島』(1959) 菊村到:原作 宇野重吉:監督

 菊村到はわたしも名前は知っていたが、その作品を読んだことはない。彼は1957年にこの『硫黄島』で芥川賞を受賞したのだった。2年後に日活がこの原作を映画化、監督は宇野重吉で、じっさいにラストシーンで硫黄島でのロケ撮影も行っている。

 実はこの作品のベースにあるのは「実話」で、この「硫黄島陥落」後4年間を硫黄島で生き延び、その後アメリカ軍に降伏した2人の日本兵のことはWikipediaの「硫黄島の戦い」の項にも書かれている。菊村到はこの報道をもとにして小説化したのだろうけれども、もちろん多くの事柄にフィクションを加えているようだ。下が、当時報道された新聞記事のコピー(内容は判読不能だが)。

     

 ある日本軍兵士が硫黄島で戦後も4年間生き延びたあと、アメリカ軍に発見されて日本に帰国するが、「書いた日記を硫黄島に残して来たので取りに行きたい」と2年後にアメリカ軍の付き添いで硫黄島に戻り、そのまま硫黄島で飛び降り自殺をしてしまうという話を基本に、その自殺した男の人物像に迫ろうとした小説だったようで、おそらくこの映画版も小説から大きな脚色はないものと思われる。

 新聞記者の武村(小高雄二)はある夜、行きつけの酒場で見知らぬ泥酔した男の面倒をみたことから彼と話をするようになる。片桐(大坂志郎)というその男は、終戦から4年も硫黄島でもう一人の兵隊と生き延び、アメリカ兵の置いて行った雑誌のグラビアから「日本が負けた」ことを知り、アメリカ軍に投降して日本に戻って来たという。彼は毎日書き継いでいた日記を硫黄島に残して来たので、アメリカ軍の協力でふたたび硫黄島に戻り、その日記を見つけるつもりだ、あなたが新聞社員なら、そのわたしの日記を出版しないかというのである。
 武村はデスクと話して記事にしようとするのだが、片桐と連絡が取れなくなる。そのうち、他の新聞の報道で片桐が硫黄島で投身自殺をしたことを知ることになる。

 いちどは片桐の体験談を聞いていた武村は、戦後帰国してからの片桐のことを調査しはじめる。片桐と硫黄島で生き延びた木谷(佐野浅夫)に会い、彼から改めて2人の硫黄島での体験談を聞くが、実は2人は途中でもう1人の日本兵、岡田と会い、しばらく3人で行動していたことがわかる。
 しかし岡田はあるときアメリカ軍の仕掛けたわなにかかり、大けがをしてしまう。いちどは岡田を置いて2人だけで棲み処に帰るのだが、片桐はあとで思い直して岡田を助けに行く。助けられた岡田はそれからは「おまえらはオレを見捨てようとした」と責め、あれこれと2人に命令もするようになる。ある日木谷が外から戻ると、岡田は息絶えていたのだが、木谷は片桐が岡田を殺したと思っているのだった。

 片桐のことを調べると、森という看護婦(芦川いずみ)と親しくしていたことがわかり、彼女と会って話を聞くのだが、片桐はやさしい親切な男で(こういう片桐評は、片桐が勤めていた職場でも片桐が住んでいたアパートの管理人もかたることだった)、森は片桐と結婚してもいいと思うのだったが、片桐は「オレはあなたと結婚してはいけないのだ」と言って姿を消してしまったというのだ。
 後になって、片桐が持っていたという1枚の写真から、実は森とは岡田の妹だったらしいということがわかる(なぜ姓が違うのかわからないのだが)。
 武村は片桐の日記などさいしょから存在せず、硫黄島で自殺するために島に戻ったのではないのかと思うのだった。

 監督は「劇団民藝」の創始者のひとり、宇野重吉。本来彼は俳優だけれども、この時期劇団民藝と日活とを提携させて多くの劇団民藝の劇団員を映画出演させ、その中で何本かを自ら監督したのだった。ちなみに、この『硫黄島』が、宇野重吉の最後の監督作品になる。

 演出面では、硫黄島塹壕内での悲惨な状況を実にリアルに撮っていて、イーストウッド監督の『硫黄島からの手紙』に、そんなに引けを取るものでもないと思った(美術は木村威夫)。ときどき手持ちカメラで大きな動きを見せるのを面白く観た。

 この映画での片桐という人物はやはりPTSDでもあっただろうし、もしも共に生活した木谷が言ったように、片桐が岡田を殺害したのならば、その贖罪の意識から森に親切にやさしくしたことも、「オレはあなたとは結婚は出来ない」と語ったことも整合性があるだろう。
 そして片桐が探した「日記」は実在したはずなのか、それとも片桐の嘘だったのかはわからないが、嘘だったとすれば最初から硫黄島で自殺するつもりで行ったのだろうし、本当に「日記」を探しても見つからなかったので、そこで絶望して自殺を決意したのかもしれない。
 そういう、自死した人の心の中の暗黒面に踏み込みながらも、「わからないことはわからない」と結論を避けていることが、ひとつこの作品の(原作と合わせて)「良心」とでもいえるものではないかと思った。