ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ゴジラ-1.0(IMAX)』(2023)山崎貴:脚本・VFX・監督

   

 というわけで、2回目の鑑賞。そもそも日記に書いたように、先に通常上映でこの作品を観たときにあまりにもサウンドトラックの音量が小さく、「もっと音量が大きければもっと迫力を感じられたことだろうに」と感じたことから、この2回目の鑑賞になったわけだけれども、実はこれがわたしには「IMAX」初体験になる。
 まあ一般に「IMAX」というのは「大画面上映」であるからこそ、というようなものらしいが、わたしにはあくまでも「音量」の問題。とにかく大音量で、5chでもなんでも臨場感の味わえる音であってくれればいい(そういうのでは、ウチの近くの映画館では「爆音上映」というのもやっているわけで、そういうのでもいいんだが)。

 とにかくわたし的には、まずはラストのゴジラとの決戦のときに流れる、伊福部昭の音楽が大音量で聴きたい、というのがあったのだが、その願いはみごとにたっぷり満たされた。こういうのは家のオーディオで大きな音でその伊福部昭の音楽を聴けばいいというものではなく、まさに「映画音楽」として映像と共に体験しなければ意味がないので、満足した。
 この伊福部昭の音楽は、第一作『ゴジラ』で、自衛隊だかの人間側がゴジラへの攻撃に向かうときに流された音楽だったわけで、この『ゴジラ-1.0』でもそのあたり、第一作を引き継いで人々が「これからゴジラの攻撃に向かう」というときに流されたわけで、その使い方にも満足した。
 また、さいしょに観たときには気がつかなかったのだけれども、ゴジラが銀座で大暴れする場面で流されていたのも、何かのゴジラ映画で使われていた伊福部昭の音楽なのだった。
 あと、すべてが終わってエンド・テロップも流され終わるとき、画面の奥から足音がだんだん近づいて(大きくなって)きて、まさにラストにゴジラの咆哮が響き、劇場を包み込んだことにもしびれた。

 観終わって思ったのは、やはり「通常上映での音声ボリュームはあまりに低すぎるだろう」ということで、「こりゃあ通常上映とIMAXとの差異を出すために、意識して通常上映の音声ボリュームを絞っているのではないか?」という疑念になった。

 映画本編の感想を書いておけば、あらためて「ゴジラとは何なのか?」ということを考えてしまった。
 そのゴジラが東京に向かう「進路予想」が、まるで台風の進路予想のようになされていたことからも、一つの考えとして「とてつもない自然災厄」の象徴かとも思うのだが、「ゴジラは東京を自分のなわばりのように思っているから、必ずまた東京へやってくる」という考えからは、意識的にゴジラは「攻めてくる」のだというような考えも読み取れ、ここに「戦うべき<敵>」という視点が見いだせる。また、ゴジラの吐く「熱線」はまさにゴジラの「武器」ではあるし、放射能汚染を生むことからも、ゴジラ全体が「核兵器」と捉えることができる。
 「兵器」は、それを誰が使用しているのかということが大きな問題ではあるけれども、その点ゴジラは自立しており、ゴジラ自らの意思で外世界を攻撃している。
 登場人物が「ゴジラが怒っている」と語るような場面があったと思うが、つまり「ゴジラの行動原理」はまさに「怒り」ではあろう。
 だから、この映画で戦後の日本人たちが戦おうとするのは、まさにそういう「怒り」に突き動かされている、「核兵器」としての巨大生物なのだろう。

 その「怒り」とは何か、ということはちょっと置いておいて、ここで「日本に進駐しているアメリカ軍(連合軍)は軍事行動を避ける」という、興味深い決定がある。
 もちろん、ここでアメリカ軍が占領下の日本を防衛するためにゴジラと戦ってしまったら、もうまるで違う映画になってしまうというか、「日本の再興」「主人公の再生」のためという根本命題が成立しなくなってしまうわけだけれども、ここのところは「えっ? そうなの?」というような、微妙なかわし方でごまかしているが。

 というか、ここでさっきの「ゴジラの<怒り>とは何か」ということに戻れば、なぜか「核兵器」化してしまったおのれみずからへの怒りと考えると面白い。ゴジラの<怒り>は、みずからに向けられているとしたら?
 ここに、この作品が「反戦反核映画」としての側面をも持ち得ることになるのだけれども。

 1954年の第一作『ゴジラ』が完成したとき、今の「アーバンベア問題」のように、観客からは「なぜゴジラを殺した」「ゴジラがかわいそうだ」という抗議の声が上がったというが(Wikipediaによる)、この2023年版『ゴジラ-1.0』では、あのゴジラに対して「かわいそうだ」という意見はあがって来ないだろう。それだけ「悪役」としてのゴジラ、「恐怖の対象」としてのゴジラの設計が成功したということだろう。この一点だけでも、延々と続いてきた『ゴジラ』シリーズの中でも、まさに「大成功」といえる一作だったろうとは思う。

 「リアリズム」という観点からいえば、終盤の「わだつみ作戦」には、その計画にも遂行にもいろいろと無理があったと思うし、時間の限られたなかで戦闘機「震電」をあそこまで改造出来っこないだろう。
 あともうひとつ、「軍隊ではなく民間の力でゴジラを倒すのだ」という組織をつくった上での「わだつみ作戦」だったが、その組織がやはり旧日本軍的な「軍隊」に近似してしまったというのは、けっきょく「自主防衛」みたいなもので違和感があった(あの指揮官の軍服風の服装は良くない)。民間には「民間の組織」をつくる力があるだろう。組織形態を変えないと。

 まだまだ書きたいこともあるがそろそろやめにして、おそらくはこの『ゴジラ-1.0』、このあとを引き継いだ続編が撮られることと思うが(『ゴジラ-2.0』?)、次作ではゴジラをどのようにして倒せばいいだろうか?
 旧『ゴジラの逆襲』では、氷山に誘い込んで氷に埋めてしまったわけだけれども、この「地球温暖化」の時代では、ゴジラが氷山を溶かしてしまって、さらに「地球温暖化」に拍車をかけてしまいそうだ。ちょっと考えたのだけれども、変な新兵器とか考えるのではなく、『ラドン』のように、噴火する火山に誘い込み、噴火口に落下させるのがいいのではないだろうか。それでも復活するゴジラ、だったりして。