『ゴジラvsキングギドラ』以降、それまでゴジラ映画のプロデュースの「顔」だった田中友幸は体調の問題から現場から退き、現場のプロデュースは富山省吾があたるようになっていたが、『ゴジラvsメカゴジラ』、『ゴジラvsスペースゴジラ』の観客動員数が落ちていることから、1995年の夏に次のゴジラ映画がシリーズの最終作となると発表した。
特技監督の川北紘一も、ゴジラと他の怪獣を対戦させるという毎回のコンセプトに「ドラマづくり」がむずかしいと感じていて、「ゴジラを死なせる」という富山省吾の案に同意。二人は田中友幸宅を訪れて「ゴジラの死」の承諾を得ようとしたが、田中は「次につながる死に方」と「大スターにふさわしい死に方」を条件に、また復活することを前提に承認したのだった。
監督は大河原孝夫に再び依頼し、脚本は大森一樹、音楽は伊福部昭という布陣となり、大森一樹にとっても伊福部昭にとっても、さらに特技監督の川北紘一にとっても、「さいごのゴジラ作品」となったのだった(ゴジラを演じた薩摩剣八郎氏も)。
大森一樹は第一作の『ゴジラ』(1954)とリンクさせる脚本を考え、あの芹沢博士の「オキシジェン・デストロイヤー」をストーリーに持ち出すことにした(それで、第一作に出演した河内桃子も出演したのだった)。
かつてオキシジェン・デストロイヤーが東京湾で使用されたとき、海底の古代の土壌から「先カンブリア時代」の生物が目覚めた、ということなのだ。その微生物的な生物が異常進化を遂げて巨大化し(「オキシジェン・デストロイヤー」の影響があったのだろうか?)、今回ゴジラと戦うのが「デストロイア」なのだ。
ここでわたしは、「先カンブリア時代」というワードに反応してしまうのだけれども、実は「先カンブリア時代」で化石が残されている生物は「エディアガラ生物群」と呼ばれ、いずれも殻や骨格を持たない「軟組織」のみの生物だった。これが「カンブリア紀」になると、その初期に一気に多彩な生物群が化石として残されることになり、生物進化を考える上で重要な時代とされる。特に「バージェス動物群」と呼ばれる生物群は、スティーヴン・ジェイ・グールドが著作『ワンダフル・ライフ』の中で「奇妙奇天烈動物」とも呼んだわけで、それ以降の動物とはまるで異なる姿で知られているわけで、それが「ゴジラ映画」で怪獣として登場するのだとなると、とっても興味津々になるわけだった。
ただ、そんな「バージェス動物群」は水生動物だったわけで、もちろん地上を歩けるような「足」は持っていない。それを「デストロイア」という怪獣に仕立て上げるところで、これは「先カンブリア時代」の動物なのだ、ということにはちょっとムリがあるようには思えた。ま、わたしとしては「バージェス動物群」から新しい怪獣を生み出すのなら、人気のある「アノマロカリス」や「オパビニア」あたりからの進化形をやってほしかったけれども(調べたら、過去に「仮面ライダー」にはアノマロカリス型の怪人が登場したらしいが)。
‥‥余談はさておいて、今回ゴジラがそれまでジュニア・ゴジラと共におとなしく棲息していたバース島が大きな火山爆発で消滅し、ゴジラはジュニアと共に海に逃れていたのだった。
ゴジラがさいしょに香港に登場したときから、火山爆発の影響で体内原子炉といえる心臓が核メルトダウンの兆候をみせていて、その身体は体内の高熱でまだらに赤く染まっているのだ。
自衛隊は、ゴジラの体温が1200度に達すると日本など消滅するぐらいのエネルギーで爆発すると予測し、「超低温レザー」を装備した「スーパーX3」でゴジラの体温上昇を抑えようとするのだ。
そんなとき、東京湾海底トンネルの工事現場に、その「デストロイア」があらわれる。当初は人間サイズだった怪獣は、自衛隊と戦ううちに複数の仲間が合体して巨大化し、空をも飛行できるのだった。
そして御前崎にはゴジラ・ジュニアが上陸する。「G対策センター」はゴジラ・ジュニアをデストロイアのそばに誘導し、それを追ってくるゴジラが、「オキシジェン・デストロイヤー」の力も保持するらしいデストロイアと戦って「自滅」ではなく倒されることを期待する。そこで三枝未希(小高恵美)がお得意のテレパシーで、ゴジラ・ジュニアをデストロイアのいる東京へと導くのであった。
けっきょく、最後にはデストロイアが持つという「オキシジェン・デストロイヤー」のゴジラへの効果というのは、すっかり曖昧にはなってしまったけれども、『ゴジラ』第一話へとストーリーを誘導する、という意味ではけっこううまく行っていたのではないかと思う。そういう意味で「ゴジラの最期」へと考えをめぐらせる「人間ドラマ」も、怪獣のバトルにちゃんと絡んでいたし、自衛隊の「対ゴジラ戦略」にも見どころはあった。
ラストは「お台場」のかなり広大な領域とたっぷりの時間を使っての、ゴジラとゴジラ・ジュニア対デストロイアというバトルになり、この部分は演出も撮影も見事なものだったと思う。これは怪獣バトルとしては歴代1位の出来ではないかとも思った。
音楽も、伊福部昭はいくつもの新曲を聴かせてくれたのだけれども、どの曲も「ああ、これは伊福部昭の作品だ」と思わせられるもので、非常に満足した。
日本では「あまりにシリアスすぎる」と特に子供層に敬遠されたようで(子供たちはこの映画のゴジラを怖がったらしい)、観客動員は「最終作」として伸びたとはいえ、『ゴジラvsモスラ』を上回ることはできなかった。
しかしアメリカでは劇場公開されなかったとはいえ好評で、当時「最も評価の高いゴジラ映画」とされた。ある批評は「壮大な怪獣バトル」を称賛し、「ゴジラファンでなくても、この映画はこれまでのゴジラ映画の『チープさ』についての先入観を払拭するのに役立つかもしれない」と付け加えた。さらにある批評はこの映画を「芸術作品」であり「ゴジラを愛する人なら誰もが見るべき作品」と、称賛していたのだった。
わたしもまた、この作品はある種の「崇高さ」をも感じさせる見事な作品で、ラストの「旧ゴジラの死」と、ゴジラ・ジュニアの「新しい怪獣王」としての復活を讃えるのである。