ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ミリオンダラー・ベイビー』(2004) ポール・ハギス:脚本 クリント・イーストウッド:監督・音楽

 いちおう以前に観た記憶で、ボクシング・ジムを経営するクリント・イーストウッドのところに来たヒラリー・スワンクイーストウッドをトレーナーに基礎からボクシングを学び、ボクサーとして順調に勝利を重ねていくけれども、ついにタイトルマッチという試合でダウンしたときにロープかなんかで首を強打して「半身不随」というかほぼ「全身まひ」になってしまい、完治の見込みもないことからイーストウッドに「人工呼吸器」を外してくれるよう依頼する。依頼を受けたイーストウッドは「人工呼吸器」外してやり、その後どこともなく姿を消してしまうのであった、という記憶。
 この日観直してみると、もちろん忘れていたことも多かったし、細かいところでストーリーを間違えて記憶していた。そして何よりもモーガン・フリーマン絡みで、大事なポイントを見逃していたのだった。やはり観直してみてよかったと思うのだった。

 主な登場人物は3人で、ジムの経営者で優れたトレーナーでもあるフランキー・ダンをクリント・イーストウッド、彼の親友でジムの管理者のエディ・“スクラップ・アイアン”・デュプリスをモーガン・フリーマン、そしてフランキーのもとでボクサーとしてのし上がるマギー・フィッツジェラルドヒラリー・スワンクが演じている。この3者の演技、それぞれみんな素晴らしかったと思う(クリント・イーストウッドもとっても良かった)。

 うらぶれた貧困家庭で育ち、31歳の現在までずっとウェイトレスをやっているマギーは、そんな自分の環境に勝ちたいとフランキーのジムに通ってボクシングをやろうとしている。
 フランキーは「女性はいらない」と彼女がジムに通うのを認めようとしないが、管理人のエディは彼女に素質があると見込んでフランキーに進言し、自らマギーにコーチしたりする。
 毎日ジムに通いつづけるマギーをフランキーも承認し、ついに自らトレーナーとして彼女をコーチすることになる。練習をつづけるうちにフランキーとマギーとはお互いを信頼するようになる。このときフランキーは実の娘と連絡を取ろうとしていつも手紙を書くのだが、その手紙はいつも彼のもとに「差出人返送」で戻って来るのだ。見ているとフランキーはマギーのなかに「自分の娘」のような気もちも抱いているのかもしれないし、マギーの方も、愛情のない家庭でただひとり、彼女に優しかった死んだ父の面影をフランキーに見ているのかもしれない。マギーは「この店のレモン・パイは最高なのよ!」とフランキーを誘い、店のカウンターで2人並んでレモン・パイを食べる。
 ついにリング・デビューした彼女は以後連戦連勝し、もはや対戦相手を見つけることも困難になり、階級を上げることにする。その階級でついにイギリス・チャンピオンとの対戦も勝利し(国籍がちがうからマギーがチャンピオンになるわけではない)、イギリス~ヨーロッパ遠征も全勝するのだった。
 ファイト・マネーをたんまり稼いだマギーは、いまだトレーラーハウスで生活する母と妹夫婦のために一軒家を買ってやるのだが母は喜ばず、「生活保護が受給できなくなる」とかの苦情ばかりをマギーに訴える。「イヤなら売ってしまってもいいのよ」と答えるマギー。
 マギーはついにタイトルマッチ戦として、危険な反則技スレスレの勝負を仕掛けてくるチャンピオンの「青い熊」と対戦する。マギーの優位で試合は進むが、ラウンド終了のゴングのあと自分のコーナーに戻ろうとするマギーは後ろから「青い熊」の反則パンチを受けて倒れ、コーナーに出された木の椅子に首を打ち付ける。
 頸椎骨を骨折したマギーは、自力で呼吸も出来ない全身不随になり、完治の見込みもない(しゃべることはできるし、表情は動くが)。フランキーはマギーにボクシングの道を拓いた自分を責めるが、エディは「そもそもはオレのせいだ」とフランキーをなだめようとする。
 母と妹家族は何とか見舞いにあらわれるが、ただマギーの財産を得ようとするばかりの彼女らにはマギーも絶望する。動かない片足も壊死して切断するし、マギーはフランキーに「自分はあなたのおかげでボクシングのプロになるという夢をかなえ、人生に望んだものすべてを手に入れた。もうここまででいい」と語り、「安楽死のほう助」を懇願する。フランキーは断るが、マギーは二度までも自分の舌を噛み切って自殺しようとする。
 そこまでに苦しむマギーにフランキーは同情し、楽にならせるべきだとも思う。毎朝教会のミサに通うことを欠かさない敬虔なカトリック教徒のフランキーは教会の神父にもこのことを話すが、神父は当然反対し、「そんなことをすればあなたは二度ともとの自分に戻れないだろう」と言う。
 それでもけっきょくマギーの望みをかなえることにしたフランキーは、ジムに立ち寄る。そこにエディがいて、彼の考えをすべて了解していたかのごとく、「後悔しない道を」と彼を送り出す。
 病院でフランキーはマギーに最後の言葉を語り、人工呼吸器を彼女の喉から外すのだった。フランキーは知らないが、その様子を物陰からエディが見据えていた。
 病院を去ったフランキーは、その後二度とジムにはあらわれなかった。映画のラストは、かつてフランキーがマギーといっしょにレモンパイを食べた店のエントランスから、中にフランキーらしい人物がいるのを写すのだった。

 前半はスポーツ界でのサクセス・ストーリーなわけで、特にこういう対戦相手のある競技で成功して行く展開は、観ていてもドーパミンが噴出するというか、そこには観ることの快楽があると思う。
 ただ、そのあとの後半はあまりにもつらい。
 海外でも問題にされたようだけれども、このフランキーの行為は「自殺ほう助」となるだろうし、日本だったらまずは「殺人罪」に問われてしまうだろう。しかし「自分が望む人生を一度は体験した」マギーに、それ以降の「全身不随」の身体に生きる希望を見いだせないのも当然だと思うし、これは「尊厳死」の機会を与えるということだろう。

 わたしがこの映画で思ったのは、モーガン・フリーマンの演じる「エディ」の存在のことで、どうもこのエディ、フランキーの精神的「分身」のように思えてしまう。その「分身」同士が2人してマギーを育て上げ、さいごのフランキーの「あまりにつらい決断」もまた、「分身」として「望むことをやれ」と背中を押していたと思う。だからこそ病院でのフランキーの行動を影から見ていただろうし、書かなかったがフランキーがいなくなったあと、エディはフランキーの娘に手紙を書いているのだ。
 そう思ってモーガン・フリーマンの演技を振り返ってみると、その抑制された演技はフランキーとおもてうらで印象に残るし、この映画の全体のナレーションを彼が行っていた意味もわかるというものだ。