ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ケイコ 目を澄ませて』(2022) 三宅唱:脚本・監督

 2013年までに4戦を戦った耳が聞こえない元プロボクサー・小笠原恵子の自伝『負けないで!』を原案に、三宅唱が監督した映画。主人公のケイコ役は岸井ゆきのという女優さんが演じている。主人公が聴覚障害の人物ということもあって、セリフをそぎ落として映像でつないで行く演出なのだけれども、これが効果的だったというか、「映像詩」ともいえる作品になっていた。
 デジタルではなくて16ミリフィルムで撮影されたそうで、その16ミリフィルムの粗い粒子もまた、この映画の重要な要素になっている。
 特に、街角の何でもない風景の短いショットの積み重ね、荒川の川面、夜の街を走って行く電車の遠景など、ストーリー展開から離れた映像がとっても情緒を盛り上げるというか、静かな空気感が伝わって来た。そして、この映画にはまったく「音楽」が使われていない。それゆえか、町の音、生活の音、そんなさまざまな音の反響が心に残るのだ。そしてボクシング・ジムでの皆の練習音は、パーカッションによるポリリズムみたいに聴こえたりもする。
 だからもう、ある意味ストーリーのことなんか思わないで、ただ画面を見つめ、岸井ゆきのの演技を見て、音を聴いていれば「最上の体験」の出来る作品ではないのか。

 映画はケイコが部屋で日記を書きながら氷水を飲んでいるシーンから始まるけれども、ケイコは水といっしょに氷も口に入れ、ガリガリと嚙み砕く音が聴こえる。
 ケイコが通う荒川区にあるジムでの練習シーンが続き、朝の河原での一人での練習にジムの会長(三浦友和)が付き添うシーン、ケイコの弟との生活などが描かれてケイコのプロ第2戦。彼女のプロ第1戦は1ラウンドKO勝ちだったという。この第2戦もボコボコに打たれはするが、判定勝ちする。勝っても嬉しそうな表情をするわけでもないケイコ。
 会長はケイコは特に才能があるわけでもないがただ練習量だけは多いという。彼女がなぜボクシングをやろうとするのかは正直わからないと。彼女は試合中もノーガードになってしまい、会長にも注意されるのに、自分では「痛いのはきらいです」などと言う。
 その会長も健康状態が悪化し、ジムも閉鎖することにする。会長は「ケイコごめんな」と詫びる。ジムのトレーナーはケイコを受け入れてくれるような他のジムを苦労して探し、受け入れてくれそうなジムにケイコと行くのだが、ケイコは「家から遠いから」と断り、トレーナーは「何なんだよ」と怒る。
 
 ケイコが家に帰ると、弟のガールフレンドが遊びに来ていることが多いのだけれども、彼女はケイコに手話であいさつするようになる。珍しくケイコの顔に微笑みが浮かんでいる。そのうち、ケイコは家のそばの空き地で弟と彼女と三人でシャドーボクシングのまねをしたり、ブレイクダンスを踊ったりする(このシーン、好きだ)。
 もう映画も終盤なのだけれど、このあたりケイコの笑顔が多く見られるようになった気がする。
 ジム閉鎖前にケイコのプロ第3戦が行われ、ジムは閉鎖される。ケイコはふだんはホテルの清掃の仕事をやっているようだが、さいごにケイコが荒川土手で練習していると、第3戦で戦った女性がヘルメットに作業服姿で現れ、ケイコに「このあいだはありがとうございました」とお辞儀をし、「じゃあまた」と去って行く。ケイコは土手を駆け上がり走り始める。

 この映画は日本で公開されるよりも先に、いくつもの海外の映画祭に出品したそうなのだが、その中に「小津安二郎が、クリント・イーストウッドの『ミリオンダラー・ベイビー』を撮ったみたいだ」と言われたそうだ。面白い評だ。
 しかしやはり、圧倒的なのは主演の岸井ゆきのの演技で、マジでワンカットで長い時間つづけるスパーリング(ミット打ち)の様子や、試合のときなどに見せる野獣のような目が印象に残ったし、じっさいにボクシングの経験がありこの映画にもトレーナー役で出演していた男優は、「正直、岸井さんは一番ボクシングから遠い人だったけれど、一番努力して一番頑張った人」と語っていた。

 わたしはこのところあまり日本映画を観ていないけれども、「小津安二郎のよう」かは別にしても、(黒沢清作品は別にして)近年もっとも心に残る作品だった。三宅唱という監督の名前は憶えておこう。