ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『グラン・トリノ』(2008) クリント・イーストウッド:監督・主演

 観ていて物語として、主人公のウォルトの行動にはどこか、ウォルトをイーストウッド自身が演じていることもあって「老いたダーティハリー」のような気分がつきまとう気がした。また、朝鮮戦争出征時からつづいて癒されない深い心の傷は、『アメリカン・スナイパー』の主人公クリスが陥ったPTSDと同じく、イーストウッド監督が描いて来た「戦争」が個人に与える「傷」と同じようなものでもあると思う。
 おそらく、このウォルトの心の傷のことは、この映画が始まったときに亡くなったばかりだったウォルトの妻はしっかり気づいていて、それで生前に教会へ行って若い神父に「ウォルトに懺悔をさせてほしい」と伝えていたのだろう。

 ウォルトはいわゆる「頑固者」で、もう家を出てとうに自立している2人の息子ともうまく行っていないし、妻の葬儀に参列する、すでにティーンエイジャーになる孫娘のいで立ちにもうんざりしている。また、住んでいる町にアジア系の移民が増えていることも面白く思ってはいないし、そんな中、となりの家には中国系、モン族の家族が越して来ていたりする。

 そんな「頑固者」が主人公でも、この映画を楽しく観ることが出来るのは、そのウォルトの「口の悪さ」のシニカルな娯楽性にあるだろうか。その悪たれ口、憎まれ口には表面的に「人種差別」的な言質も含まれていて危ういのだけれども、その中でウォルトが通う床屋のイタリア系の主人(ジョン・キャロル・リンチ)と交わす憎まれ口の応酬を聞くと、それがある意味で彼なりのジョークであることもわかる。
 隣家とのそれ以降との交流や、若い神父とのやり取りを見ていても、その憎まれ口は一種「コール&レスポンス」であり、床屋の主人とのやり取りのように「互いの認識の手段」であったりもするのだろう。

 そういうところで、モン族の隣家との交流も、その家の娘のスーがさいしょっから「憎まれ口」をきくことでウォルトの信頼を得るわけだし、のちにウォルトが彼なりの「教育」をほどこそうとするタオにしても、「憎まれ口」をきくようになる(それが彼の成長のしるしなのだ)。

 問題は、町に住むそんな隣家のタオやスーのいとこらが完全なチンピラで、特にタオはその一団の仲間に誘われ、そのしょっぱながウォルトが所有する「グラン・トリノ」という古い名車を盗むことだったりする。すぐに盗もうとするタオを見つけて追い出すウォルトは、タオのことを「意気地なし」と認識する。以後ウォルトはタオを鍛え、好きな女の子に声をかけることや、家でくすぶっていないで外で働くことを教える。
 そのあとにウォルトがそんないとこの一団からタオやスーを救い、そのことでウォルトはとなりの一家からごちそうの歓待を受けるのだ。ウォルトもだんだんと隣家の家族に心を許すようになって行くが、タオはやはり暴行を受け、スーまで一団に凌辱されることになる。ウォルトは「これは生半可なことでは解決しない問題だろう」と認識する。

 その頃ウォルトは喀血し、肺ガンと診断されるようだ。ウォルトは床屋へ行き、教会へ行って神父に「懺悔したい」と告げる。彼は息子たちとどう接したらいいかわからず、仲がうまく行かなかったことなどを懺悔して懺悔室を出るが、神父はウォルトを呼び止めて「それだけ?」と聞き、さらに「報復するのか?」と聞く。神父は背後の事情をわかっているのだった。
 ウォルトは一人で、タオのいとこらの巣窟の家へと向かうのだった。

 この映画は、「暴力は暴力では解決しない、暴力の連鎖を生むだけだ」という認識から、その「暴力の連鎖」を断ち切るひとつの方策を示す映画だったわけで、ある意味でクリント・イーストウッドが彼の「戦争」を描いた作品で語ったことを引き継いだ作品ともいえる。
 ウォルトは朝鮮戦争での体験で、まだ少年のような朝鮮兵を殺害したことが今でも心を苦しめていたわけで、それで亡くなった夫人は神父にある程度のことは伝え、「懺悔を聞いてやってくれ」と言っていたのだろう。だからじっさいにウォルトの懺悔を聴いたあと「それだけ?」と言ってしまったのだろう。
 また、この映画でウォルトの隣家に来る「モン族」の家族、そのモン族というのは、かのヴェトナム戦争の際にアメリカ軍によって「モン特殊部隊」がつくられアメリカに協力したが、アメリカ軍が撤退したときにモン族は見捨てられた。このときモン族の「難民キャンプ」がタイにつくられたが、そのキャンプが閉鎖されたときにアメリカに渡った人々があったらしい。その後のモン族は、ミャンマーの軍事政権にも迫害されるという歴史を持っているという。
 そういう歴史からも、この映画のウォルトが「朝鮮戦争」での悪夢を吹き払い、助けることになるのが「モン族」の家族だというのは、まさに真っ当なことであるだろう。

 映画のラスト、ウォルトから譲り受けた「グラン・トリノ」を、ウォルトの愛犬だったディジーといっしょに乗って海辺をドライヴするタオの表情は、その空のように晴々としているようだった。