先日観た『羊たちの沈黙』は、サスペンス/ホラー映画へのそれまでの見方を変えさせた傑作だったけれども、この『エクソシスト』もまた、それまで「キワモノ」と見られていた「悪魔モノ」「オカルト」のホラー映画に芸術性を認めさせるものだったと思う。
また、このような「悪魔憑き」を思わせる「ポルターガイスト現象」や「ラップ現象」は現実世界で実際に起きて報告されていて、この映画にリアリティを与えていただろうと思うし、ウィリアム・ピーター・ブラッティの原作もウィリアム・フリードキンの演出も、その「リアリティ」を裏切らないシリアスなものではあった。
この映画でひとつ白眉なのは、単に「悪魔祓い」のドラマではなく、その「悪魔祓い(エクソシスム)」を行う二人の神父の内面と、この「悪魔憑き」現象との連関を追い詰めて描いていることで、特に「悪魔祓い」のときにメリン神父の助手として付き添う、当の家族と先に知り合っていたデミアン・カラス神父の描写が、この映画の主題とも言える大きなドラマを孕んでいる。
このカラス神父が、クリスチャンであるとともに精神科医でもあるということがひとつ大きなファクターになっていて、彼の「迷い」もそこから来ているのだろうと思わせられる。そのことに加えて、一人暮らしをしていたカラス神父の母親の生活ぶりに不安も持っていたし、じっさいに母親から訴えられもしていた。そんな母親を施設に送り、そこで彼女を死なせてしまい、その臨終の場にも立ち会えなかったことが彼の大きな「痛恨」になっている。
そこにリーガンに取り付いた「悪霊」の立ち入るところとなり、悪魔はカラス神父の母親とその死のことを知っていてカラス神父をなじるのである。この映画のラストは、その「悪霊」を自分の中に呼び寄せて自ら死を選び、そのことで「悪霊」を退治/退散させたといえるけれども、それは同時にカラス神父の内面において、クリスチャンには忌避・禁止されている「自死」を選んだものとも言えるだろう。このラストは幾重もの意味を孕んでいて面白い。
メリン神父に関して言えば、この映画は冒頭にメリン神父がイラクでの遺跡発掘作業のシーンから始まり、メリン神父はそこで発掘した古代の異教の悪魔の首、その地に隆立するその悪魔像に心揺さぶられるのだが、リーガンへの「悪魔祓い」の終盤、彼自身も息絶えようとするときに、室内にそのイラクの異教の悪魔像を見るのである。
しかしこのシーンはメリン神父の「主観映像」ともいえるわけだし、リーガンに取り付いた「悪霊」がカラス神父に彼の母のことを思い出させたように、メリン神父にそのイラクの異教の悪魔の姿を見せたのも「悪霊」の仕業(もしくは死を前にしたメリン神父の「妄想」)ではあり、この「悪霊」イコール「イラクの異教の悪魔」と断定できるものではないと思う。ここにも、幾重もの意味が含まれていただろうか。
途中、刑事役でリー・J・コッブが登場して来て、わたしは観ていて「はて、この俳優さんの顔は見覚えがあるのだけれども誰だっけ?」としばらく考え、ようやくリー・J・コッブの名前を思い出したのだけれども、どうもこの緊迫したドラマの外側からやって来た彼の容姿を見ていると、なんだかそこだけ50年代のノワール映画を観ているような錯覚に陥ってしまった。
この映画はマイク・オールドフィールドの「チューブラー・ベルズ」をサントラで使ったことでも有名で、わたしもそのあたりを気にとめて観ていたのだけれども、テレビの音量が小さすぎて、ラストのクレジットで聞き取れた以外で確認は出来なかった。残念。
この映画のポスターにも使われている、夜にメリン神父がリーガンの家に到着するシーン、これはマグリットの作品「光の帝国」を参考にしたのだという。美しい。