この作品の監督アリ・アスターの前作『へレディタリー/継承』は、わたしは主演のトニ・コレットのファンなので映画館に観に行った。監督の長編第一作で、「新しいタイプのホラー映画」としてそれなりに評判も良かったようだけれども、その神経症的なストーリー展開とか、わたしには不必要ではないかと思えたリアルでグロテスクな死体の描写とか、「ちょっと受け入れられないなあ」という印象はあった。
『ミッドサマー』はスウェーデンの「夏至祭」をテーマにした作品だということは聞き知っていて、それはリアルな「夏至祭」ではなく、フィクショナルな「カルト」的古代教団を中心としたストーリーだということで、多少イギリスの「五月祭」(これは北欧の「夏至祭」と起源は同じである)などのことは知っているので、観てみたいという気もちはあったけれども、COVID-19禍とかでわたしも映画館へは出かけるのを避けるようになり、今まで観る機会はなかった。
主人公はアメリカの大学生のダニー(女性)で、彼女は恋人のクリスチャン、そして2人の学友マークとジョシュと共に、スウェーデンからの留学生の誘いでスウェーデンの片田舎の「夏至祭」へと行くのである。現地に到着すると、ダニーら4人とは別にロンドンから来たという若者カップルも先に来ていた。
その閉鎖的な、一種コミューン的な「村」での「夏至祭」は、なんと「90年ごとにしか行われない」祭りだという。クリスチャンとジョシュは文化人類学専攻なので、「いい論文のテーマになる」と喜ぶのだが、皆は妙なマッシュルーム・ドラッグなどを服用させられたりし、まあ客人の若者らはだんだんに薄気味悪くなってくるわけである。
そのうちに、「夏至祭」が始まるのだが‥‥。
さて、その「夏至祭」についてわたしはちょっとばかり知っているので、そのことをちょびっと書いておきたい。
この映画では「夏至祭」なのだけれども、同じような「祭」はヨーロッパ中にいろいろある。イギリスでは「五月祭(May Festival)」として5月1日に行われる。この映画の舞台になったスウェーデンやフィンランドでじっさいに「夏至祭」は行われているのだけれども、Wikipediaで「夏至祭」を調べると、まさにこの映画『ミッドサマー』で見ることができるのと同じ「ポール」(蔦を巻き付けたような高い塔)の写真が出ているし、花や葉でつくる冠のことなど、映画と同じみたいだ。
このWikipediaによる「夏至祭」はかなりキリスト教色が強く、映画『ミッドサマー』での「原始キリスト教」もしくはそれ以前の宗教という雰囲気とは差があるみたいだ。
そこでイギリスの「五月祭」を考えると面白いのだが、こちらの起源はキリスト教伝来以前にさかのぼれるはずで、例えばこの『ミッドサマー』に出てくる「ルーン文字」などの威力が今もあるのではないか。それはキリスト教の「神」を讃える祭ではなく、もっと「地の精霊」を賛美する、繁殖の季節の到来を祝う祭であって、どうもスウェーデンやフィンランドのかなりキリスト教的に健全化された「夏至祭」よりも、この映画に登場するコミューンでの「秘教的」祭典は、そんなイギリスの「五月祭」を典拠として創作されたものではないかと思う。
かんたんに言えば、この『ミッドサマー』で描かれる「祭」は、ヴィジュアル的にはじっさいのスウェーデンの「夏至祭」を参考にして撮られていると思うけれども、その「祭」の内側にある「秘教的」なヤバい祭典は、かなりの部分でイギリスの「五月祭」の精神を典拠としているのではないかと思う。
まあけっこうショッキングな映画ではあったと思うけれども、考えてみたらこういうのって、例えばもっと昔の映画で、西欧の人たちが船が難破したとか、もしくは「秘境探検」とかで絶海の孤島とかにたどり着いてみたら、その島の原住民らはまさしく「異教」の下に暮らしているわけで、そんな世界にまぎれ込んだ西欧人たちは、つまりは原住民らに拉致されて彼らの儀式の「生贄」にされるのだ、と考えればわかりやすいのではないか。いい例が『キングコング』みたいなものだ。そんな南洋の原住民がここではスウェーデンのコミューンに置き換えられたみたいな。
だからこの映画では、そんなスウェーデンのコミューンの人たちの「儀式」の、根底の意味合いは「了解不能」なままに終わるのだ(少なくとも、「キリスト教」的なものではないだろう)。ルーン文字がアイテムとして登場しても、誰も解読することはできないままだし、表象的な「異様さ」だけが前面に打ち出される(せっかく人類学専攻の学生もいたことだから、もう一歩突っ込んだ「解明」があっても良かったと思うが)。
その「異様さ」で観客にショックを与えるために、この映画では「リアルな死体」というものが何度も登場する。それは前作『へレディタリー/継承』で、グロテスクな死体を登場させるのと同じ手法だろう。そしてこの「儀式」で気になる点がいくつかあって、つまりこの「儀式」は「90年に一度」だけ行われるということだけれども、そうするとその「儀式」のないあいだの90年間に、72歳になって自分から「死」を選ぶという人たちはどうするのだろう?という疑問がひとつ。そして、このコミューンは近親結婚を避けるため(敢えて近親結婚を選ぶこともあるようだが)この映画のように「外の人物を招き入れて」外の血をコミューンに導入するわけだけれども、これも「90年に一度」という頻度でいいのだろうか、という疑問もある。それと、この「90年に一度」の「夏至祭」に参加している人の数があまりに少ない。このコミューンの構成員ならば全員が参加するような大きな祭りだと思うのだが、まあ儀式に列席するのはコミューンの代表格のメンバーだろうからせいぜい20人ぐらいなのはわかるけれども、映画製作の限界だったのかどうか、全員あわせても100人前後しかいなかったような。それは「コミューン」維持として少なすぎる人数だろう。
ということで、この21世紀になってもなお、ヨーロッパの中に「絶海の孤島」のような秘教の世界を創造したということで、観客にはショックの度合いも大きかったわけだろう。しかしわたしは、その「秘教」の奥行きが描かれていないということで、この映画がカルト的な評判を得ることは出来ないだろうとは思う。