ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2020-12-24(Thu)

 あと年内、仕事に出るのは今日を含めて「あと3日」になった。昨日ちょっと書いたのだけれども、今の職場での「懸念事項」は職場ビル前の道路に舞い散る「落ち葉」の掃除、という問題がある。これは年内で終結するものではなく、来年になっても引き継がれる問題ではあるだろうけれども、その「ピーク」はおそらくはこの年内のことだろうと思われる。まあ年内の残り3日間、「出勤を早めて始発電車に乗ってもいいか」と、今日も始発電車で出社した。
 ふだん乗る(始発から2番目の)電車に比べてこの始発電車、昨日も書いたことだけれども、車内での会話が多い。というか、わたしがふだん乗る電車の中では「客同士の会話」などというのは皆無なわけだけれども。まあ正直言えばわたしは、静かな方がいいなと思ったりする。
 今朝は「落ち葉」は比較的少なくて、ちゃっちゃっと掃除も終えたのだけれども、いったいどういう条件によるのかはわからないが、日によってそれこそ「じゅうたん」のように落ち葉が歩道に敷き詰められる日もある。このあたりの塩梅は不明である。

 今日は通勤の電車内で、読んでいた『大英自然史博物館珍鳥標本盗難事件』を読み終えた。単純に一つの「事件」のルポルタージュということを越え、著者の立場の明確な興味深い「ドキュメント」だった。いろいろと考えることの多かった本だ。感想は別に書くでしょう。

 昨日は陽が昇ってからは陽射しも暖かくなり、「こういう日は散歩とかしてみたくなるものだな」と思い、今日も同じような天気だったらいちど帰宅してから外を歩いてみてもいいな、などと思っていたのだけれども、今日は残念ながらずっと曇り空で、<散歩>するにはふさわしくない日になってしまった。

 仕事からの帰り道、いつもの「野良ネコ通り」とは反対側の脇道を、見知らぬネコが歩いているのを発見した。言ってみれば、「野良ネコ横丁」を闊歩するネコ、というところだ。

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 うしろ姿しか見られなかったけれども、まだまだこのあたりにはわたしが知らないネコも棲息しているのであろう。野良の生活は過酷なことだろうと思うが、わたしがこのような野良ネコに出会う機会があると、ただいつも、「つらい目に会わずに長く生きてほしい」と思うばかりである。
 わたしは自宅周辺でもこのあたりでも、けっこうな数の「野良」に出会っているけれども、いつしかそんな「野良」の姿は見かけなくなってしまう。野良ネコだらけの環境を望んでいるわけではないけれども、いちど出会った「野良」に愛着を感じたのが、それがすぐに二度と出会えなくなってしまうということが悲しくは思う。「野良」の存在というのは、今ではわたしたち人間の「無責任さ」の結果であるとも思える。異論はあるだろうけれども、「野良」というのは、本来は「飼いネコ」とされるべきだったネコらが「放置」された結果として生まれた「悲しい存在」だと思う。だから「野良ネコ」にもいっぱい食べ物を与えましょうというつもりはないけれども、そんな「野良ネコの悲しさ」は、人間が生み出したものなのだということ。そして、わたしの愛するニェネントはまさに、そんな野良の子どもではあるのだ。どうしてわたしたちは、イスタンブールでのように「野良」と共存できないのだろうか。

 今日はまたまた東京でのCOVID-19感染者数が過去最多になった。報道を見ると、来年にまだやるつもりでいるらしい「オリンピック・パラリンピック」の開会式、閉会式の演出をやるはずだった野村萬斎氏らが解任されたという。よくはわからないが、わたしの感想ではこれは「もう<アート>とか<舞台芸術>とか、そういうことをやるのはやめよう」ということだろう。
 もちろんわたしは今の情勢で来年に「東京オリンピックパラリンピック」が開催できるなどと思ってはいないけれども、いちど野村萬斎氏らに任せると決めた「総合演出」を、(仮にやるとしたら)あと七ヶ月というところで変更するというのは乱暴すぎる。「舞台芸術」を何だと思っているのか、ということである。野村萬斎氏ほどの人物であれば、「これだけCOVID-19がまん延してどうしょうもないよね~」という状況でも、ひとつの「演出」を打ち出せる能力を持っている。それを今解任するというのは、「もうどうでもいい」という気もちのあらわれでもあろう。何という情けない国だろう。このことひとつを取っても、もう来年の「東京オリンピックパラリンピック」は、開催すべきではないと思う。