ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2020-10-21(Wed)

 夢をみて、久しぶりにその夢のことを少し記憶していた。
 夢の前半の記憶は消えてしまったけれども、わたしはKさん(女性)といっしょである。何か教室のようなところでのレクチャーのあとだったような記憶もあるけれども、とにかく何かのイヴェントが終わって、わたしはKさんといっしょに帰り道につく。外はすっかり夜である。あれこれと話を交わしながらゆるい坂道を降りると、その右手に細長い公園がある。わたしはその公園の中を右に突っ切れば多少近道になるとは思うのだが、Kさんがそのまままっすぐに坂を降りて行くので何も言わずにいっしょの道をとる。坂道はすぐに左右に伸びた道にぶつかるのだが、わたしの帰り道は右の道なのでそちらを選ぶが、Kさんはわたしのことも確認しないで左へと歩いて行く。特に「さようなら」などと言わないで、このまま別れるのもいいかと思って、わたしはそのままKさんと逆の道を行く。ふと気になってKさんの方を振り向くと、通りの奥に電信柱があり、その横にKさんが向こうに歩いて行くのが、夜の街灯の黄色い光の下にみえた。Kさんはわたしがそばにはいなくなったことなどちっとも気にかけていないようだ。そのKさんの後ろ姿を「美しい」と感じ、「わたしは今夜この瞬間、Kさんを愛してしまったのだろうか」と思うのだった。

 今朝の未明どき、仕事に出るときは暗闇ながらも快晴で、星がいっぱいみえた(といってもわたしは眼が悪いし、ココは東京近郊でそこまでにたくさんの星が見えるわけでもないのだが)。
 わたしは無知なもので夜空の「星座」というものをまるで知らず、わずかに「北斗七星」と「オリオン座」を見分けられるだけなのだけれども、この朝は天頂近くにオリオン座があるのを見つけた。何だか今の時期、ちょうど「オリオン座流星群」というのが見ごろだということ。あとで調べたら、この10月21日こそがその「オリオン座流星群」のピークだったらしい。この朝は流れ星など見られなかったが、情緒を感じる夜空だった。

 その出勤時は肌寒い感じだったけれども、昼間には陽射しも暖かで気温も上がったようだった。仕事の帰りにはまた、底辺のまっ平らな雲が浮かんでいるのが見られた。こういう雲はよく見るけれども、いったいどういう気流とかの関係でこういうかたちになってしまうのだろうか。

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 このところ、「野良ネコ通り」でネコたちの姿を見かけないので寂しい。それでも、他のところでわたしの目の前で道路を横断するネコの姿を見かけてはいる。カメラを取り出すひまもなく姿が消えてしまうけれども、まだいくらか「野良」はこのあたりに健在なのだなあとは思う。
 今の日本では、「野良ネコ」が増えることを抑えようという空気が大きく、「野良ネコの糞害」だとかいろいろと言われる。保健所が野良ネコを拉致していくということはないにしても、「野良ネコに食べ物を与えるのはやめましょう」とは大きな声で言われている。

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 わたしもそういう声にいちがいに反対するわけではなく、特にニェネントのお母さんのミイを自室で飼うことができないと了解したとき、とにかくミイはどんどん季節ごとに子ネコを産んでしまうこともあり、「今後もミイにごはんを出してあげるのはやめた方がいいだろうか」とは思い、けっきょく、ミイにウチのヴェランダでごはんを出してあげることはやめてしまった。しかし、その結果としてミイの悲しい「死」を間近に目にすることにもなり(わたしがミイの臨終を看取ったけれども)、自分がミイの早すぎる死に加担したような気になり、今でもわたしの心の傷になっている。
 そのあと、映画館で『猫が教えてくれたこと』というドキュメンタリー映画を観たとき、「どうして、日本ではこういう<人とネコとの共生>が出来ないのだろうか?」と、悲しい思いをした。わたしは現実に、人が「ネコの糞害」で迷惑をこうむるということが、実のところ想像できないでいる。これはじっさいにそういう「害」をこうむっている人の話を聞いたことがないので、「そういうことってあるのかな?」と思ってるだけなので、「何を言っているのだ!野良ネコは迷惑なのだ!」という意見もあるのだろうけれども、やはり今でもなお、『猫が教えてくれたこと』のイスタンブールのような、「ネコと人との幸福な共生」が可能なのではないかと思いつづけている。
 もうひとこと、この『猫が教えてくれたこと』という映画のことで書いておけば、わたしはこのドキュメンタリー映画で、ムスリムの人たちの信仰心からの「思いやり」、「心優しさ」を学んだ思いがする。
 わたしが夢見るのは、ネコたちとの日常の幸福な生活のことではある。わたしが守れるのは今はニェネントの「生」だけだから(ニェネントも、その本質は「野良」である)、どんなことがあってもニェネントを守りたいのだ。