ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2021-11-17(Wed)

 『月 人との豊かなかかわりの歴史』という本を読み始めたら、この金曜日には「ほぼ皆既月蝕」が夕方から見られるのだと知った。夜中ではなくって「夕方」というのもわたしには最適だし、それはもちろん、「月蝕」というイヴェントは見たいものだ。しかし金曜日の天気予報は「晴れ時々曇り」と、微妙なところがある。だいたい金曜日の夕方は映画を観に行こうかと思っていたのだけれども、とにかくは映画は明日の木曜日に行くことにして、金曜日は全身、「月蝕を見るぜ!」モードにはしておきたいと思うのだった。
 金曜日当日は東の空に午後5時ごろに月が上がってくるようで、そのときにはもう「月蝕」は始まっているという。6時に「食の最大」になり、そのときは月は「ほぼ地球の影」に入り、おそらくは影になった「赤い月」が見られると期待している。そしてだいたい8時前には食も終了するようだ。まさに、毎夜8時ぐらいには寝てしまうわたしのための「天体ショー」ではないかと思う。しかも翌日は土曜日で仕事もお休みだし。
 もちろん、ウチの前にちょこっと出たくらいでは東の地平線に近い月の姿も見られないけれども、ちょっと先の国道にかかる歩道橋の上に行けばしっかりと見られることだろう(この歩道橋は新年の「初日の出」を拝むスポットでもある)。そして、おそらくは読んでいる『月』の本も、ちょうど金曜日には読み終わるだろうし、いろいろとグッドタイミングだろう。雲など出ないで晴れてくれればいいのだけれども。

 この日は帰り道、「野良ネコ通り」で、ニューフェイスのネコくんに出会った。今はいなくなってしまった、わたしが「殿」と名付けていたネコがいつもひなたぼっこしていたスポットにいたネコ。まだ子ネコみたいだ。

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 こうやって、新しいネコくんに出会うと、「わあ~、新しいネコだ!」と喜んでしまうのだけれども、もちろんそれだけではすまない。たいていの人は野良ネコが増えることを望んではいないだろうし、この子ネコのこれからの生活はどれだけ大変なことだろうかと思う。そこでわたしが「ご飯」を持ってきて、この子ネコにあげるわけにもいかないし。

 前に観たトルコ映画のドキュメンタリー、『猫が教えてくれたこと』では、イスタンブールの街で人とネコがいかにも幸せな関係を築いていたし、今、毎週テレビで見ている「岩合光昭の世界ネコ歩き」でもいつも、人とネコたちとの幸福な関係を見ることができる。それがなぜ、わたしの周りの世界では、そういう関係が結べないのだろうか。もちろん、野良ネコが放置されればいくらでも子ネコを産んで「増殖」してしまうことはわかっているし、単にそんな野良ネコを不妊手術したらそれでOKというわけではないこともわかっているが。
 ただ、今のままでは、こういう都市部に生きる「野良ネコ」は、ただただ「不幸」なのだ、という考えしか出てこない。やはりこの町が「イスタンブール」になることは無理なのか。
 今日出会った新顔の子ネコが、苦しい思いをしないで生育してくれればと願うばかりである。その思いは、野良ネコの子だったニェネントへの思いにも通じてしまう。わたしとニェネントとの出会いは、それはラッキーだったのだ(お母さんネコのミイの意志でもあったけれども)。
 やはり、野良ネコを見かけて「なんとかしてあげたい」と思えば、そのネコを連れて帰って自分のウチで飼うしかないのだろうか。それはもちろんわたしにはできないし、じっさいにそういうことをやってキリがなくなり、「多頭飼い崩壊」におちいった話はしょっちゅう聞く。悲しいことだと思うが、今のわたしには簡単には答えは出せない。ただ、今日出会った子ネコのことは、またその元気な姿を目にしたいものだとは思う。

 今日も仕事を終えて帰宅してCDをいろいろと聴き、音楽三昧になった。長く聴かなかった音楽をこうやって久しぶりに聴いて、いろいろと感じること、思うこともある。こうやって、わたしが今持っている古い音源でも、聴き直すことから得られることもあれこれとあって楽しい。しばらくは、こうやって音楽にまみれた生活をして行きたい。