今日11月29日は、ニェネントのお母さんのミイの十周忌の命日である。ミイのことを書こうとすると長い話になってしまうが、ミイは野良として生き、野良として死んだ。その長くはなかっただろう生涯のある時期、わたしの部屋にひんぱんに出入りするようになり、短かい期間わたしの部屋の押し入れで5匹の子ネコを育てたのだった。そのうちの1匹がニェネントである(ちなみに「ミイ」という名は、花輪和一のマンガに登場する妖怪ネコの「ミイミイさま」にミイが似ていると思ってつけた。ひどい命名だったと思って反省している)。
ウチのベランダに訪れるようになったミイと親しくなり、わたしはいつも窓を開けてミイが室内に入れるようにした。そのうちにミイは「腹ボテ」になり、「ははあ、出産するのだね」とわたしも了解し、押し入れを片づけてミイが入れるようにし、「どうぞここで出産してね」とやった。ミイもわたしの部屋の中を巡回して押し入れを見て、「ココ、いいかもね!」と思ったようだった。それがミイの出産はほかの場所でやったみたいだけれども、おそらくは出産の翌日ぐらいに、生まれたばかりの小さな子ネコを外からくわえて来て、わたしが準備した押し入れに運び入れたのだった。5往復。子ネコは5匹いた。
わたしは当初、その5匹の子ネコとお母さんのミイとをいっしょにわたしの部屋で飼おうという無謀な考えを持ったのだったけれども、ミイはちょうど一ヶ月わたしの部屋で5匹の子ネコのめんどうをみたあと、子ネコのうちの3匹を口にくわえて外に連れて行ってしまった。わたしはずっと窓は開けっぱなしでミイが勝手に出入りできるようにしておいたのだけれども、それが仇になってしまった。それから一週間経って、わたしも気をつけていたのだけれども、残る2匹の子ネコの一方もミイに連れ出されてしまった。ミイを部屋に入れて閉じ込めようとしたこともあるけれども、外に子ネコがいるわけだし、ミイも部屋の外に出たがって閉じ込めるのは無理だった。「もうこれはいけない」と窓を閉めてミイが入れないようにして、残った一匹の子ネコ、つまりニェネントを守ることにした。外に出ても野良ネコになるだけで、それはネコには幸せなことではない。
わたしはしばらくは窓の外のベランダにネコご飯を出してあげていたけれども、ちょうど「野良ネコにエサをあげないで」という声も聞かれるようになっていた時期だったし、「ミイもまた子ネコを産んで、不幸な野良ネコを増やすだけになる」と思い、ベランダにネコご飯を出すのをやめてしまった。
今考えればミイを動物病院に連れて行って、不妊手術とか施してやればよかったのにとも思うけれども、当時はわたしも相当に貧乏だった。というか、ミイの死にはわたしの責任がある。
ミイも、ベランダに食べ物がないので自然とわたしのウチの周辺では姿を見なくなったけれども、以後ミイの連れ出した子ネコの姿は見たことはある。すぐに見かけなくなってしまったので、やはり延命できなかったのだろう。
それで2010年11月29日。お昼ぐらいに、となりの人が「お宅のベランダにネコが来てますよ」と教えてくれた。それがミイで、ウチの窓の網戸に爪を立ててガリガリやっていて、「入れて!」とやっているようだった。
別に飢えて痩せ細っているという感じはなかったけれども、どうやら毒性のものを口にしたのか、状態としては「瀕死」だった。もう自力では歩くこともできないようで、おそらくさいごの力を振り絞ってウチのベランダにやって来たのだろうと思えた。
抱き上げて部屋に入れてあげたけれども、どうしたらいいのかわからずにソファーに寝かせてあげ、ミルクを与えてみたけれども、ちょっとだけ舐めたあと、小さな泡を吹いて動かなくなった。わたしと、ミイの子どもであるニェネントとでミイを看取った。
ネコは死ぬときに人に見られないところで死ぬというけれども、ミイは死ぬときにわたしの家に来ることを選んだ。いろいろと、書くとキリがないほどにわたしとの心の交流のあったかしこいネコだった。ミイの写真もほとんど残ってなく、その遺品は数本のヒゲだけ、そしてニェネントをわたしに遺してくれた。
ミイとの思い出でいちばん記憶に残っているのは、ミイと知り合ったさいしょの頃、ウチの近くの公園のそばでミイに出会ったときのこと。ミイはわたしのことがわかって、わたしの前を歩きながら何度もわたしのことを振り返りながら先に進み、それは「わたしについておいで」ということがわたしにもわかったので、ミイの歩みについて行った。すると公園のわきの一軒家の前の荒れ果てた庭に入って行き、その中に立ってわたしをじっと見ているのだった。それはつまり、わたしにもミイが「わたしの家はココなのよ」と言っているのがわかった。ミイは、わたしに自分の家を案内してくれたのだった。人の家の敷地だからそれ以上ミイのいるところに近づけなかったけれども、ミイのその気もちがただうれしかった。
今こうやって、ミイの死から十年が経ち、その子どものニェネントも10歳を過ぎた。ニェネントだって「野良」になってしまう危機があり、だったらもう今ごろは生きていることもなかっただろう。ニェネントの「生」は、だからお母さんのミイのわたしへの「ギフト」なのだ。それはわたしの人生でわたしが受け取った最高の「ギフト」だった。
わたしは今でも、涙を流そうと思ったらミイのことを思い出せば、どんなときでもポロポロと泣くことができる。今日もいっぱい泣いた。
今日はニェネントといっしょに、ミイのことを追悼いたしましょう。
外は曇っていて、今日も寒い一日だった。買い物に出ると、空には黒いうろこのような雲が一面に拡がっていた。
今日はいつもの北のスーパーで一週間分のバナナ、そしてパン、今夜の「お刺身盛合せ」などを買った。バナナのコーナーで、月曜日から金曜日までの5本分ある房を物色していたら、(ちょっと物色ぶりが目にあまったのか)そばにいたおじさんから「このバナナもおいしくないんだよね~」とか話しかけられてしまった。「いや、わたしは実は5本の房を探してるんですけど、最近なかなかないんですよ~」と答えたら、「ほんとだ、5本のはないね~」との返答をいただいた。ま、そんなに房をいじくり回さないようにしていたけれども、あまり人に「不審」と思われないようにしなければならないと思った。
夕食に、買ってきた「刺身盛合せ」をニェネントと分けて、亡きミイへの追悼とした。しかしやはりこのスーパーの刺身は美味しくなく、何よりも「刺身のつま」の「大根の千切り」があまりに大量で、できるだけ食べようとしたけれども残してゴミ袋に入れてしまった。思ったけれども、これって、さいしょっからこの「刺身のつま」を全部食べてもらうことはまったく想定していないと思う。こういうところにも「食品ロス」があると思う(もう一軒、西のスーパーで先日買った「刺身の盛り合わせ」についていた「刺身のつま」はまさに<適正量>で、ぜ~んぶ食べてしまった。こういうところにもスーパーの<差異>があるものだという気もするのだ)。