ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『大英自然史博物館珍鳥標本盗難事件 なぜ美しい羽は狙われたのか』カーク・ウォレス・ジョンソン:著 矢野真千子:訳

 原題は「The Feather Thief: Beauty, Obsession, and The Natural History Heist of the Century」で、「羽泥棒:美、執着、世紀の博物館泥棒」というあたりの意味だろうか。前にも書いたけれども、この「邦題」を含めて、美しいブック・デザインの本だと思う。
 著者のカーク・ウォレス・ジョンソンという人は本来このような分野のライターではなく、この本を書くまでの彼は、イラク戦争後のイラクで迫害を受けるイラク人の現状をアメリカの雑誌に寄稿し、さらに彼ら・彼女らを難民としてアメリカに呼び寄せるNPO活動をされていたようだった。彼はかつてイラクの地でPTSDに陥り、その治癒と気晴らしのために釣り(フライフィッシング)を趣味とするようになるが、あるとき、釣りのガイドからこの「博物館泥棒」の話を聞き、「それはどういうことなんだ?」と、事件に興味を持つようになるのだった。そこには、フライフィッシングで使う「毛針(サーモン・フライ)」というものの存在こそが、その「博物館泥棒」の動機であるという事実があった。

 わたしも「毛針」というものについて、多少のことは知ってはいたけれども、その存在の背後には材料としての「美しい鳥の羽根」を追い求める多くのサーモン・フライ制作者がいたのだった。そこではもう、じっさいにフライフィッシングにそのサーモン・フライを使用するという「実用性」はほとんど失われ、ただサーモン・フライの「美」を追及する世界があったのだ。そしてそこではつまり、その存在すら貴重な、「絶滅種」もしくは「絶滅危惧種」である<美しい>鳥類の羽根も、異様な高額で取引される世界があったのだった。いい画像が見つからなくって、この本に掲載されている「毛針」はたしかにこれよりもずっと美しいのだけれども、まあこういう感じのものである。

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 著者のカーク・ウォレス・ジョンソンは、まずはその「欧米には棲息しない」<美しい>鳥類が欧米に知られる過程の分析から始め、19世紀の探検家/動物学者アルフレッド・ラッセル・ウォレスによる、生きた「フウチョウ(極楽鳥)」の発見を語る。
 それ以前に「フウチョウ」のはく製はヨーロッパに持ち込まれ、そのはく製では足が切り取られていたため、「極めて美しくも足のない謎の鳥」として知られてはいたのだった。人々はこの鳥はその生涯をすべて飛ぶことで過ごし、決して地上に降りることはないのではないかと想像した。アルフレッド・ラッセル・ウォレスは生きたフウチョウをマレー諸島で発見し、その他膨大な量の標本などと共にイギリスに持ち帰る。ここに、西欧でのフウチョウらの「美しい鳥」を追い求める<風潮>(フウチョウ、ちょっとダジャレ)が始まる。

 アルフレッド・ラッセル・ウォレスはこのために多くの動物が絶滅に追いやられてしまうのではないかと危惧したというが、それは現実のこととなった。
 まずは、「美しい鳥の羽根」を使った婦人帽のブームが巻き起こった。一羽のフウチョウの羽根をまるごと使った婦人帽なども登場し、ハチドリなど多くの鳥類が帽子製作のために捕らえられた。
 この「帽子ブーム」は19世紀末から20世紀にかけて「野生生物の大虐殺」に反対する声も起こってすたれてしまうが、これとは別に美しい「毛針(サーモン・フライ)」をつくろうというブームも始まる。ここにジョージ・M・ケルソンという人物が登場し、「芸術形式の毛針制作」というものが始まる。このときにはまだ、毛針にはじっさいに釣りに使用する実用価値があったのだけれども、ケルソンは「毛針制作に<美しい鳥の羽根>を使用すれば、それだけ効果はあるのだ」と語る。そして今の「毛針制作」はじっさいに「釣り」に使うということはほとんどないとはいえ、このケルソンの「毛針制作」態度を引き継いでいるわけで、ここにこの「博物館泥棒」の背後の理由があるだろう。「もう今では博物館でしか見られないような珍しくも美しい鳥の羽根を求めるなら、博物館から盗めばいいのだ」ということになる。

 著者のカーク・ウォレス・ジョンソンがこの事件を知ったのは、すでに犯人が逮捕されたあとのことではあるのだが、カーク・ウォレス・ジョンソンはその時点で犯人が「アスペルガー症候群」とされて「執行猶予」の判決を受けたこと、そして博物館から盗み出された鳥類の標本が犯人によってインターネット経由で売られ、回収されていない標本が多数あることに疑念を抱き、犯人との接触を試み、ある日犯人を自宅に呼び寄せ、8時間に及ぶ面会(インタヴュー)を実行する。そこで著者は「犯人はアスペルガー症候群などではない」と確信し、また、犯人の発言の中の「虚偽」にも気づく。
 著者はこのあと、「ひょっとしたらネット上での共犯者なのではないか」と疑った、ノルウエー在住の「毛針制作者」にも会いに行く。

 まあこういうところの内容の本なのだけれども、いくつかの問題を提起した本ではあるだろう。
 ひとつには、「それは<デッドストック>ではないのか?」という博物館の資料室在庫のことではあり、いずれにせよ永遠に資料保管室で眠りつづけるであろう<鳥の標本>などは、犯人が語るように「外に出して役立てた方がいいのではないか」という問題。これは「博物館」とはどのように機能するのか、という大きな設問ではあるだろう。「死蔵」という言葉があるが、「それでいいのか?」ということだ。もちろんそれらが盗み出されて「毛針」として役立つことが「よりよいあり方」だなどと思うわけはないが、ひとつ考えてほしい問題ではあると思う。
 それはそれとして、はたしてこの「芸術」にニアミスするような「毛針(サーモン・フライ)」の制作者、愛好者をどのように考えるべきなのか?
 彼らはもう、それらの「サーモン・フライ」が現実に「釣り」に使用されるとは想定せず、ただそこに「サーモン・フライ」の「美」を追及しているようなのだが、じっさいに「釣り」に使用されることはないと思いながらも、ちゃんと釣り針を付加して、過去の「サーモン・フライ」を模倣、発展させるかたちで彼らなりの「創作」をやっているのだろう。そこには、もちろん「創作性」という要素はあることだろうけれども、やはり「今では入手困難な」鳥類の羽根を使うということが大きなファクターになっていると思う。
 わたしはそういう「趣味の世界」があることを攻撃したくはないが、そのような意識は行きつけば、この「博物館泥棒」のような行為になってしまうのではないだろうか。

 犯人は音楽大学でフルートを学ぶエリートで、将来的にベルリン交響楽団への加入も期待されていたという。わたしは彼が、「サーモン・フライ」制作趣味と、自分の音楽を学ぶ姿勢とをちゃんと分離して考えていたのなら少しは彼に理解できるところもあったかと思う。しかし彼は博物館から標本を盗んだあと、「純金のフルートを買いたいので」と語って、ネットでその鳥の羽根を売りに出したという。そのことは彼が博物館から標本を盗んだときに、「これは換金できる」と想定していたということでもあり、「趣味」の域を踏み出しているだろう。わたしの考えではそれは「有罪」だ(その「分離」ができないということで、やはり彼は「アスペルガー症候群」なのだろうか?)。また、彼が「純金のフルート」を欲しがる背後には、「リアルな<美しい鳥の羽根>」を使ってサーモン・フライを制作することが重要だとする、彼の精神が反映されていると思う。そこには、「金をかければかけるほど、いいモノが出来る」というつまらない信仰があるのだろう。わたしはこの本に、その「何でも金をかければいいのだ」という精神への批判を受け取った思いがする。

 その本来の意図から逸脱して、じっさいの用途に使われなくなってしまったものというと、そんな「毛針」からの連想でわたしは「デコイ」とかを思い浮かべてしまうのだけれども、やはり「金をかければ金をかけるほど高評価を受ける」世界というのはどこか狂っていて、「デコイ」とかの方が健全かな、などとは思ってしまう。はたして、「創作」とは何なのか? そんなことを思わせられる本ではあった。