ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『絶望』ウラジーミル・ナボコフ:著 貝澤哉:訳

絶望 (光文社古典新訳文庫)

絶望 (光文社古典新訳文庫)

 ナボコフは意外と「クライム・ミステリー」的な作品をけっこう書いている。まずは長編第2作の『キング、クィーン、ジャック』からして、「実行寸前で挫折した犯罪」という内容だし、この『絶望』の前作『カメラ・オブスクーラ』も、主人公の破滅は「犯罪」によるものだった。そして何よりも『ロリータ』は、この『絶望』に似た、「犯罪者による<小説>(というか<手記>か)のかたちをとった独白」という形式だし、『淡い焔』の注釈者のキンボートとは、狂気をはらんだ犯罪者ではないのかという読み方をしたくなる。
 そんな中でこの『絶望』は、主人公が自ら「小説」を書くという心意気で、自分の(失敗した)「犯罪」を記述した作品として特異だろうか。形式としては『ロリータ』を思わせられるが、この『絶望』の主人公のゲルマンの「自意識」は興味深い。

 この小説はすべて、主人公のゲルマンの視点からゲルマン自身によって書かれているわけだけれども、そのゲルマンの「視点のゆがみ」から、おのずから「小説とは何か」ということが、いかにもナボコフらしくも(ある面でコミカルに)あらわされている。読者はゲルマンの「視点のゆがみ」のみを支えとしてこの作品を読み進めなくてはならないけれども、そのことは『ロリータ』での「狂気をもはらんだ犯罪者」ハンバート・ハンバートの視点、その記述のみを頼りに読み進めることに似ているだろう。

 要するに金策に詰まっていたゲルマンはあるときに野原で「自分に生き写し」のフェリックスという浮浪者のような男と出会い、彼を自分に仕立てて殺害し、<保険金詐欺>を実行しようとするわけである。
 この作品の最大の「ネタバレ」をしてしまうと、実はフェリックスという男は「これっぽっちも」ゲルマンに似ていたわけではなく、かんたんにゲルマンは「フェリックス殺し」の容疑で手配されてしまう。つまり、ゲルマンだけの視点から一人称で書かれたこの作品では「ゲルマンとフェリックスが生き写し」ということを信用するしかないのだが(それでも、ゲルマンが「鏡」がきらいでずっと鏡を見ていないという「ヒント」じみたことは書かれているが)。
 まあこの小説はその「最大のネタバレ」を知ってしまったからといって「な~んだ」というものではなく、ゲルマンの意識を追うことにその面白さがあるから、わたしもこうやって大きな「ネタバレ」をしてしまっても、「良心の呵責」に心を痛めるなどということはしない。
 いちおう書いておくと、その終盤にゲルマンは「もっと重大な」自分の計画の手落ちに思い当たり、「あららら、ダメだわ」と、この作品のタイトルを『絶望』と決めることになるのだ。

 わたしはこの作品を、先に読んだパトリシア・ハイスミスの『愛しすぎた男』に似ているところがあると読み始めたのだが、つまり『愛しすぎた男』も、ひとりの女性を相手の迷惑もかえりみずに愛しようとするストーカー男のデイヴィッドの視点から書かれた作品なわけで、ただ地の文はハイスミスによるものだから読んでいて客観的に「このデイヴィッドという男、<ストーカー>じゃん!」となるわけだけれども、その『愛しすぎた男』をただデイヴィッドの内面だけをたどって書いていけば、「オレは彼女に愛される権利がある!」とか、「オレの彼女への想いを阻害する権利は誰にもない!」とかいうことばかりを書いた作品になることだろう。デイヴィッドがもしも自分に都合のいいことだけを書けば、とちゅうで「彼女はなぜデイヴィッドを拒むのだろう?」「デイヴィッドの恋愛成就のときも間近だ!」という感想を生み出すかもしれない。まあわたしが『愛しすぎた男』でこの『絶望』を思い出したのは、そのラストで主人公が追い詰められて人々に取り囲まれるシーンが似ていると思ったからなのだけれども。

 そういう意味では、この『絶望』の主人公のゲルマンは「うすらトンカチ」の「ボンクラ」ではあり、ハイスミスの作品でいえば『妻を殺したかった男』の主人公のウォルターの「ドジさ加減」を思い浮かべる。ゲルマンは妻のリーダに溺愛されていると思っているのだが、彼の書いた記述を読めば自然と、リーダの従兄弟だという(「従兄弟」かどうかもあやしいものだ)アルダリオンとの仲がヤバいということはわかるというものだ。しかしながらゲルマンの視点に読み取れるロシア文学、とりわけドストエフスキーの作品への「批判」には作者のナボコフの視点が含まれるだろうし、そういう「書き手」のインテリジェンスというものは『ロリータ』にふたたびクロースアップされ、さらに『淡い焔』へと引き継がれるものではあろう。

 だいたいこの作品の読書ポイントというものは、この文庫本の「解説」で翻訳者の貝澤哉氏が懇切丁寧に書いていらっしゃるので、もう何を書いてもかないっこない思いもするのだけれども、とにかくはこの作品のゲルマンが進化して、のちの『ロリータ』でのハンバート・ハンバートとして姿を現すだろうし、さらに『淡い焔』の注釈者キンボートにもその反映が見られるだろうということは先に書いた通り。
 まあそういう「ナボコフらしい」仕掛けに満ちている作品とはいえ、けっこう娯楽性に富んだ小説ではあり、それは『ロリータ』を表面的に読んでも「こりゃあ面白れえや」と感じられるだろうことに似たものがある。
 この文庫本の解説にも書かれているように、この原作はあのファスビンダーによって1978年に「光のなかへの旅」の副題をつけて映画化され、この映画は日本でも「ファスビンダー映画祭」か何かで公開されたことがあるらしい(ソフト化はされていない)。まあ普通に考えればストレートな映画化はむずかしいだろう小説で、そのあたりはファスビンダーも工夫しているようだけれども(やはり「鏡」を効果的に使ったらしい)、実はナボコフ自身がこの作品の映画化を自ら望んでいて、映画関係者に話を持ちかけたりしていたらしい。どうやらこの作品を映像化するについての演出のアイディアを、自分で持っていたのではないかと思われる。それはどんなものだったのだろうか?(先日購入したナボコフの「書簡集」に書かれているだろうか?)

 ナボコフの初期のこういった「クライム・ミステリー」として、中編『目』も含まれるようだ。次は『カメラ・オブスクーラ』、そして『目』と、ナボコフを読み継いでみようと思う。