とりあえず読了したが、これは再読したいところ。ただ図書館本なので来週中に返却しなければならず、そうもいかないのが残念ではある。
この本は、37歳で夭逝した作家セバスチャン・ナイトの伝記を、彼の母親の違う弟のVが書いていく過程を書いた本、という体裁を取っているけれども、実は過程を書いたこの本全体こそが、Vが書こうとしたセバスチャン・ナイトの伝記なのだということになる。しかもそれだけでなく‥‥。
セバスチャン・ナイトの経歴は著者のナボコフの経歴に似たところもあり、年齢も同じ、ロシア生まれで亡命したことも同じなのだが、セバスチャンは亡命後は主にイギリスを中心に生活している。一方、彼の伝記を書こうとするVはフランスで暮らしており、セバスチャンの生前は顔を合わせる機会も少なかった。それでVはセバスチャンの生前の知人らに連絡を取り、あたかも探偵のようにセバスチャンの私生活を調べようとしている。
ちなみに、彼の「V」という名は、一度だけあるときセバスチャンに会っていた彼に、セバスチャンが「V」と呼びかけることで彼の名がわかるわけで、これはプルーストの『失われた時を求めて』の中で一度だけ、その登場人物が語り手のことを「マルセル」と呼ぶことで語り手の名前がわかる、という事情と同じであろう。
ちゃんとしたことは再読のあとにしか書けない気分ではあるけれども、そんな中でたんじゅんに、読んでいていちばん面白いところは、Vが、セバスチャンの晩年に知り合っていたある「重要な」女性を、わずかな手がかりから追跡しようとする展開だろうと思う。
4人の該当候補の女性にひとりひとり面会して行き、探す女性はまだ会えないマダム・ド・レチノイという女性か、ヘレーネ・フォン・グラウンという女性のどちらかだと絞り、ヘレーネの邸宅に彼女に会いに行く。しかしヘレーネは在宅していないそうで、Vは代わりにヘレーネの友人というルセール夫人に会い、ヘレーネのことをあれこれと聞き出す。
後日約束をして再びヘレーネ夫人宅を訪ねるが、またもヘレーネは不在でルセール夫人がまた彼の相手をする。ルセール夫人は奇妙なコケティッシュな魅力を持つ女性で、あたかもVに誘いをかけるような話し方をする。
しかし、ルセール夫人のあるちょっとした発言から、Vはルセール夫人はつまりマダム・ド・レチノイで、晩年のセバスチャンを翻弄した女性は彼女だと気づくのである(Vは自分が了解したそのことを彼女に語らずにお暇を告げるのだが)。
ここでルセール夫人は、そのセバスチャンに会っていたのはヘレーネであり、ヘレーネから聞いていた話として、ヘレーネがセバスチャンとどのように交際していたかをつまびらかに語っていたのだが、つまり彼女は「自分のこと」を語っていたわけで、そのときに「私は」の主語の代わりに「彼女は」と語っていたわけだった。
このことは『賜物』から、いやもっと前のナボコフの作品でナボコフが試みていた「人称」の問題のヴァリエーションで、ここでも「一人称」と「三人称」との混同を行っていたわけだろう。
『賜物』ではその問題は「文体の実験」めいたところがあったが、その前の中編『目』では、まさに語り手(書き手)の主人公が、自分のことを「私」ではなく、三人称で「彼」と書くことで読者を目くらます、一種「推理劇」ではあったわけで、その構造はこの『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』での、そのルセール夫人の用いた「語り」と同じではあったわけだ。
また、『絶望』という作品でも、ちょっとこじつけて考えれば主人公は自分みずからの中で「一人称」と「三人称」とを混同し、他人のことを自分と認識してしまった話、ということもできるのかと思う。
そういうわけでこのあたり、ナボコフが長年取り組んできた問題ではないかとも思うわけだ。
このことはさらに深読みしていくと、「作品の中での書き手」と「じっさいの書き手であるナボコフ自身」との関係という問題になる。わかりやすいのは次作『ロリータ』での、作品内書き手のハンバート・ハンバートと、ナボコフ自身との関係になるわけで、言うまでもないことだが「ハンバート・ハンバート」イコール「ウラジーミル・ナボコフ」ではない。
それはこの『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』でも言えることで、この作品を書いている「V」は決してナボコフではない。その、ナボコフと「V」との距離を読み取ることが、この作品を理解する第一歩ではあるだろう。
わたしがそのことを痛感させられたのは、Vが、ルセール夫人こそが晩年のセバスチャン・ナイトを惑わせた女性だとわかったときの記述で、そこではこう書かれている。
「ぼくが訊いておきたかったのは、彼女が大層退屈に思っていた蒼白い顔の男が、現代の最もすぐれた作家の一人であったことに、彼女が気づいていたのかどうかということだった。」
ここには明らかに、「ナボコフ」ではない「V」による文学感というか、「V」独自の考えが書かれていると思う。この箇所以外にもそういうところはまだまだあることと思うが、わたしはこの部分に反応した。
つまりここでVは、セバスチャン・ナイトのことを「現代の最もすぐれた作家の一人」というわけだけれども、それは「客観的事実」なのだろうか。単にVによる「思い込み」、「兄への賛美」なのではないかということ。
もしもこれがナボコフの意識として書かれたとするなら、ナボコフは「なぜセバスチャン・ナイトは<現代の最もすぐれた作家の一人>と認識するかということを、この作品の中で記述し、証明しなければならないだろう。そしてそのことは大変にむずかしいことだろうと思える。
だいたいからして、ルセール夫人にとってセバスチャン・ナイトが「大層退屈な蒼白い顔の男」であろうがそれは仕方のない彼女の認識で、彼女に「あなた、あの男は偉大な作家なんですよ」と認識させるなどということはナンセンスなのだ。じっさい、文学史において「偉大な作家」とされた人物で、実生活では「退屈な男」であった例などいっぱいあることだろうし、中には殺人犯だっていたわけだ。
Vがルセール夫人に「セバスチャン・ナイトは偉大な作家だ」と認識されることを求めるのは、セバスチャン・ナイトの作品とはまったく無関係なことではあるし、この部分で分かることは「Vのセバスチャン・ナイトへの崇拝」でしかないように思える。
つまり、ここでVがセバスチャン・ナイトのことをそうやって賛美するのは、ナボコフではなくどこまでもVの意見、考えであろう。そのことはこの作品を読む上で重要なことで、それはつまり、たいていの作品でナボコフが用いた「信頼のおけない語り手による作品」という視点に目を開かされる。
要するにこの作品、そのVによって書かれようとしている「セバスチャン・ナイトの正当な伝記」についての書物なわけだけれども、そのVの視点に「セバスチャン・ナイトへの崇拝」があり、「正当」なものではないとすれば、この書物は、セバスチャン・ナイトの「真実の生涯」にはなり得ない。
そういう意味で、この『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』という小説、いったいどこに書き手のVの「信頼おけない」部分があるのか、もういちど再読してみようと思っている。というところでこの文章は、この「情けない読者」によって突然終わるのである。
ただこの問題、『ロリータ』においても、いったいどこに「信頼のおけない書き手」であるハンバート・ハンバートの「虚偽」があるのか、ということを探ることに似通ってしまうのである。