この本を読み終えたあと、じつはわたしはこの本を1年半前にいちど読んでいることが、この日記からわかった。例によってまったく記憶していなかったのだが、それで読み終えてからその自分の過去の日記に書かれた「感想」を読んでみたのだけれども、今回読んでも、さいしょに読んだときと同じような疑問を感じていることがわかった。
デヴィッド・グレーバーは、過去に人類学者としてマダガスカル島に2年間滞在し、そのときの島民の社会形態の調査などから、そこに「アナーキズム」を補完するものがあることに注目するわけだ。
そこから、現代に実現可能なアナーキズム形態を模索してまとめ上げたのがこの本。
けっきょく、グレーバー自身も以後アクティビストとして活動し、おかげで大学の職を失ったりもするわけだが。
それでさて、彼がここで提唱するところの「グループ理論」的なものは、たしかに実現可能なものだとは思う。「多数決制民主主義」の否定、というのも興味深いものがある。
しかしこういう理論は、小さなグループ、もしくはマダガスカルのように国際情勢から独立し得る「島」においては実現可能かもしれないけれども、例えばヨーロッパ諸国のように周囲を国境で他国に接している国、日本やイギリスのように、国際情勢の中で重みを持つ島国では実現は不可能だろう。そういう意味ではアイスランドやニュージーランド、いやオーストラリアだって可能かもしれないけれども、それ以外の国では「アナーキズム」の実現は不可能だろう。さもなければ「世界同時変革」でいっせいに「アナーキズム」的に変容するという、柄谷行人氏のいう「世界共和国」というものでしか実現できないだろう。
特にグレーバーは「資本主義」も終わらせる、という考えなのかもしれず、「貨幣経済」への疑問も呈しているが、「貨幣」というものの起源などの分析は、わたしが柄谷行人の著作で読んだところの、マルクスによる貨幣の分析に比べると、あまりにユルいだろう。
このあたりは柄谷行人も書いているが、貨幣制度による資本主義というのは、終わらせることは困難だし、終わらせなくても公平・平等な社会をつくることは可能だろう。
けっきょくだから、グレーバー氏に「どうやってそんなアナーキズム社会を実現する?」ということにはほとんど答えてはいなくって、末尾にいきなり「社会革命」などという文字が読み取れるのみであり、これでは「空想的社会主義」としての「アナーキズム」、という域を出ていないのではないだろうか。
けっきょくこの書物、「アナーキズムに同意する」人が増加することを求め、それらの人による国際的連帯を説く、以上のものではないのでは?と思えてしまうのだった。