- 作者:ナボコフ,ウラジーミル,ウィルソン,エドマンド
- 発売日: 2004/12/01
- メディア: 単行本
エドマンド・ウィルソンは、実は読んだことはない。『アクセルの城』を読んでみたいと思ったことはあったが、けっきょく今まで読んでいない。『フィンランド駅へ』がどのような本かは知らないでもないが、読もうとは思わない。とにかくはアメリカの文芸批評家としては重要な人物だろう。
ナボコフ一家は、1940年にアメリカへやってくるわけだけれども、ナボコフはそれまでにベルリン、パリで亡命ロシア作家として重要な地位を得るようになったとはいえ、アメリカでは無名作家だっただろう。いくつかの小説の英訳は出ていたようだけれども、そこまでに評判になったわけではない。アメリカに(特に文学関係の)知人がいたわけでもないようで、「どうしよう」という気もちはあっただろう。
「文壇」というわけではないけれども、やはり同じ文学者との関係とか、出版関係に明るい人のコネというのは、まったく孤立無援で経済的にも困窮していたナボコフには必要だったのだろうか。そんなとき、ロシア語に堪能でもある文芸批評家のウィルソンに手紙を書いてみたら?との助言を受けて1940年8月30日にウィルソンに手紙を書き、これがそれから30年に及ぶ二人の交際のはじまりになる。
どうやらウィルソンの紹介でナボコフはある雑誌に<書評>を書いたようなのだけど、ウィルソンはそれを読んで「<書評>自体は良い出来だけれども、雑誌の指定した書式は守るように。それから、だじゃれは慎むようにしてください」との手紙を出す。
以後、だんだんにウィルソンのナボコフへの信頼が厚くなるというか、二人の手紙は親密度を増していく(ナボコフの手紙にはジョークが多いのだが)。ナボコフはウィルソンに「短篇を掲載する雑誌を紹介してほしい」とか、「いい仕事はないだろうか」とかの希望も述べるのだが、何から何まで二人の考えが一致しているわけではなく、だんだんに手紙の中にそのような記述も多くなる。ウィルソンはナボコフの作品すべてを評価するわけでもなく、ダメ出しをすることもある。
まずさいしょの段階でいちばん大きな不一致は、「ロシア革命」、「レーニン」への評価から来る。わたしもそのあたりのことは想像がつくのだが、当初西欧ではレーニンを高く評価する声が大きく、ウィルソンもそんな一人だった。その「革命」をぶち壊したのがスターリンという見かたで、こういう革命観はのちの日本でもよく聞かれるものだった(わたしは昔はアナーキズムの本を読んでいたので、さいしょっから「ロシア革命」というものには否定的だったが)。
しかし革命を実体験しているナボコフは(アナーキストではなかったが)そんなロシア革命観は否定するものであり、そもそもレーニンの段階で革命は非人間的だったのだと言う。これはナボコフが「帝政復古主義」として、かつては膨大な資産を所有したブルジョワジーから没落した亡命者として(自分の財産を取り上げた)ロシア革命を否定しているのではなく、そもそもがリベラル政治家としてボルシェビキ革命に対抗したナボコフの父の思想を受け継いでのものなのだろう。そういうところで、ウィルソンのように「革命を夢見る」青年的な視点からのロシア革命観にはまったく同意しないのだ。ナボコフ自身の政治観はだから一主義一党に属さぬ「リベラル」なものだけれども、ただただ、彼の「反共意識」というのはかなり強烈なものがあり、前に読んだ『ナボコフ書簡集』では、アメリカのヴェトナム戦争を支援するようなことを書いてもいるのだが。
さてこのあたりのことは、今ではもうよほどの人でなければレーニンを絶対視することもないだろうし、ロシア革命への解釈はナボコフの解釈に近いものになっているだろう。
もうひとつの問題がある。これは「ロシア詩の翻訳」の問題で、まあこのあたりのことはわたしにも「ちんぷんかんぷん」ではあるのだけれども、「ロシア語に堪能」なはずのウィルソンが「ロシア詩の<韻律>」のことをまるで解っていないと、ナボコフは長い手紙で説明を試みるのである。
このことはけっきょくウィルソンはしっかりとは理解できなかったようで、以後もちょいちょい互いの手紙の中で問題になるところのものである。
それでそのことがどこまで関係しているかわからないが、1964年にナボコフがプーシキンの『オネーギン』を英訳したとき、ウィルソンはこれを徹底的に批判するのだけれども、このあたりのことは雑誌を媒介に展開された「論争」なので、この「往復書簡集」にはそのあたりのことは読み取れない。どうも「あとがき」を読むと、単にこの翻訳の問題だけではなく、それ以前にウィルソンが発表した彼の日記の中で、ナボコフ夫人ヴェーラがナボコフに寄り添う様子を、「悪口」といえる筆致で書いていることで、この件でもナボコフは激怒したらしい。
とにかくこの30年に及ぶ二人の手紙を読むと、やはりそのさいしょのうちはナボコフには「本を出したい」「仕事が欲しい」ということをあれこれとウィルソンにお願いし、要するに「頼りにしている」という感じではある。したがって、その交友のごく初期にナボコフがウィルソンのロシア詩知識が不足していると思ったときも、かなり懇切丁寧に応対して教えている。
それがナボコフもコーネル大学に職を得て落ち着いてからは、まだウィルソンがロシア語をちゃんと理解していないことに気づくと、もうちょっと厳しい書き方には変化してくる。「あとがき」では、さいごの決定的な論争の背景には、ナボコフがすでに『ロリータ』のベストセリングでウィルソンとの地位が交代したと思われる時期ではないかともいう。
ちょっとナボコフの肩を持ちすぎるようなことばかり書いてしまったが、ナボコフにも偏屈で独断的、自己中心的なところもあるわけで、彼がダメだと思う作家に対してはボロクソ書いていることは前の「書簡集」からわかっている。それでこの「往復書簡」の初めの頃から、ウィルソンが売り出したと言ってもいいフォークナーなども「一瞥にも値しない」ぐらいの態度をウィルソンに見せているわけだから、ウィルソンとしては面白くはなかったかもしれない。
しかし、ナボコフがコーネル大学での講義のために英文学から誰かを選ぶためウィルソンの助言を求めたとき、ウィルソンはジェーン・オースティンとディケンズとを推薦し、ナボコフはこれを取り上げることになるわけだ。特にオースティンに関してはナボコフはさいしょ、「わたしは女性作家という存在は認めないのだ」などといやに保守的なことを言っているわけだけれども、けっきょく『ナボコフの文学講義』に出てくるように、オースティンの文体に「えくぼ」を認めるという名講義を行うことになるわけで、このあたりのナボコフへのウィルソンの「影響」というものも無視するわけにもいかないだろう。
長い期間にわたって、多岐にわたる話題が語られる「往復書簡集」だから、いちど読んでどうこうというのではなく、「資料集」として、何かあるたびにめくり返してみたい本だとは思う(この本にも、巻末に人名、その作品タイトルの詳細な索引がついているのだ)。