この山中瑤子という監督はまだ27歳で、この作品が長編デビュー作だという。去年カンヌ国際映画祭に出品され、女性監督の史上最年少として「国際映画批評家連盟賞」を受賞したのだった。彼女は20歳のときに『あみこ』という作品を自主製作し、その作品もベルリン国際映画祭のフォーラム部門で上映されたとのこと。
わたしはそのような山中瑤子監督の経歴も知らず、この『ナミビアの砂漠』という映画がどういう内容なのかまるで知らずに「観たい」とは思っていたのだった。「タイトルがいいなあ」と思っていたのかもしれない。
そして最近になって、この作品でヒロインを演じている河合優実という女優さんが、次期朝ドラの『あんぱん』にヒロインの妹役で出演されることを知った。『あんぱん』でヒロインのお母さんは江口のりこが演じられることは知っていたけれども、そうすると『あんぱん』でヒロインと共に江口のりこの娘役を演じられるという女優さんを、『あんぱん』が始まる前にしかと見ておきたくもなったりもしたのだった。
そのことが後押しともなり、去年から「観たい」とは思っていて観なかったこの作品を、ついに観ることにしたのだった。
作品を観て、「あー、これはまさに<女性監督>の撮った作品だなあ」とは思ったのだった。決してそのことを作品の否定材料として言っているのではないけれども、語弊を招く言い方をすれば「女性監督が撮った、女性の生態を記録した映画」とでもいった感じ。
特にこの作品に登場する男性たち、ヒロインのカナの恋人であった2人の男性についてのヒロインの対し方、付き合い方などの「なまなましさ」というものが、何というか、わたしには「女性であるからこそ見えるところ、感じるところ」が描かれていたように思う。そしてそれぞれの男に抱く「不満」とでもいうようなもののなかに、女性だからこそのストレスというか、かんたんに乱暴に、そしてどこか「差別」を含むかもしれないいい方として「男にはわかんねえよ~」というところを感じ、そこにまさに「27歳の女性監督ならではの表現」を読み取れる思いがしたのだった。
わたしとしては、カナの言動には「女性であること」を除外して考えても「不合理」なところが多々あるとは思う。それはこの作品の「演出」を抜きにして考えれば「堪忍してくださいよ~」っていうか、とうてい共感しがたいところもあるのではないかと思うのだが、これは山中瑤子監督がヒロインのカナに深い共感を持って描いているからというのではなく、「何だよこの女」と感じさせずに、彼女を受け入れさせるところがある。ひとことでいえば、わたしは「強烈な存在感」のある作品だと思うのだった。
実はこの作品のなかでカナが「鼻ピアス」をし、同時に恋人も刺青を入れるという場面で、「コレは『蛇にピアス』ではないか」と思ってしまったのだが、じっさい映画を観たあとに読んだ何かで、山中監督は『蛇にピアス』というか金原ひとみの影響を認めていて、去年はどこかの文芸誌に金原ひとみとの対談も掲載されたらしい。
わたしは例によって(といつもいつも語るのは卑怯この上ないのだが)その『蛇にピアス』の内容についてはほとんど記憶していないわけで、「あ、『蛇にピアス』だ」と思ったとはいえ、それ以上「だからどう」という風に話を発展させることもできない。ただ、わたしは『蛇にピアス』からしばらくは金原ひとみを推していて、新作ごとに読んでいたものだった。そういうところで、この『ナミビアの砂漠』を観ても拒絶することもなく受け入れたというのも、そのあたりに理由があるのかもしれない。
『ナミビアの砂漠』というタイトルのことだけれども、作品中でカナがときどきスマホで見ているのが、「ナミビアの砂漠」からのライヴ中継で、これはラストのタイトルバックにもそのナミビアの砂漠の「水飲み場」、そこに何頭かのオリックスが集まって来ている映像も流れる。
たんじゅんに考えれば、その「砂漠」がカナの内面に拡がる「砂漠」だということもできるのだろうけれども、この「ナミビアの砂漠」からのライヴ映像は、現実にYouTubeで24時間発信されている映像で、誰でもいつでも見ることができる。
わたしもこういう自然の情景を眺めるのは好きなので、そのYouTubeも見てみたけれども、この映画のラストに映される「水飲み場」を見ることができた。これからもときどき見てみたいと思っているけれども、ここにそのライヴ映像を埋め込んでおこうと思う。どんな動物の姿も見えずに「写真」のようだとしても、これは「ライヴ映像」です。運が良ければ動物の姿が見られるでしょう。わたしは鳥がやってくるところを見ましたが(日本とナミビアとの時差は7時間)。