この映画には「Seules les bêtes (Only The Animals)」という原作小説があり、フランス語原題も小説と同じ。2019年の「東京国際映画祭」では、『動物だけが知っている』のタイトルで上映されたらしい。日本での一般公開は2021年。
映画の冒頭、まだ文字クレジットしか出ていないときに、女性の悲鳴のような声が聞こえてきて「ドキッ!」としたのだけれども、それはヤギの鳴き声だったわけで、「Only The Animals」というタイトルにぴったりだったかな、とは思った。
舞台はフランスの寒村。村はずれの別荘に来ていたエヴリーヌという女性が、道ばたに車を残したまま行方不明になる。その行方不明事件の周辺を、4人の村人と1人のパリの若い女性、そしてコートジボワールの若い詐欺師、それぞれの視点から描いて行く。
映画で描かれた順にとらわれずにストーリーを書けば、農場を経営するミシェルは、コートジボワールのアルマンという若者のたくらむネット詐欺に引っかかり、アルマンが成りすます「アマンディーヌ」という架空の女性に夢中になっていて、「金をすっかりだまし取られてしまった」などという彼女のために、何度も多額の現金を送付してしまっている。
エヴリーンはパリの若い女性のマリオンと同性愛の関係にあって、マリオンと別れた上で別荘に一人で来ていたのだが、エヴリーンをあきらめきれないマリオンは、単身エヴリーンを追って別荘までやって来る。
その途中でミシェルはマリオンの姿を見るのだが、「彼女こそアマンディーヌだ」と思い込んでしまう。マリオンはエヴリーンと別荘で会うことを拒まれ、一人でロッジに宿泊しているのだが、エヴリーンがロッジを訪れて大げんかになってしまう。
ところがそのけんかの現場を、マリオンの宿泊地を探していたミシェルに見られてしまい、ミシェルはマリオン~アマンディーヌをだまして金を巻き上げたり、彼女を苦しめているのがエヴリーンだと思い込み、道路上で彼女を絞殺してしまうのだ。
雪道に残されたエヴリーンの死体だが、最近母に死なれ、その遺体を手放さなかった履歴のあるジョセフという農夫が死体を見つけ、自分の農園に運び帰る。ジョセフはエヴリーンの死体に添い寝したりするのだが、いずれ死体が発見されると考え、雪山の中へとエヴリーンの死体を運んで行き、山の中の岩の裂け目へと死体を放り込み、続いて自らもそこに身を投げるのだった。
さて、ミシェルのその後だが、アルマンの犯罪は露見し、コートジボワールの警察からミシェルのもとに連絡が行く。つまり、ロッジにいたマリオンは「アマンディーヌ」ではなかったのだ。ミシェルは自分で事実を知ろうと、コートジボワールへと飛ぶ。何とかアルマンを見出すのだが、アルマンはすでに詐欺から足を洗い、真面目な仕事に就いていた。宿に戻ったミシェルのノートパソコンには、別口の同じような詐欺の誘いがあるのだ。
こ~んなストーリーに、まだまだいろいろと書かなかった尾ひれがつくわけだ。例えばミシェルの妻のアリスは農夫のジョセフと不倫関係にあったし、映画のラストに、亡くなったエヴリーンの富豪の夫がコートジボワールから愛人を連れて別荘にやって来るのだが、その愛人はかつてアルマンの恋人であったりもする。こういうことは「だからどうなのだ?」と問えば、それは「どうでもいいこと」ではないだろうか?
映画ではまずミシェルの妻のアリスの視点から「アリス」の章があり、以後視点を変えながら「ジョセフ」「マリオン」「アマンディーヌ」と続く。この順番で観て行けば、「そうか、あのときのあの人物の行動とはこういうことだったのか」と、だんだんに露わになってくるという次第である。「それって、<伏線回収>ってことだな」と思い、「Filmarks」の皆が書いた映画評、感想などを読むと、まさに「見事な伏線回収だ!」との賛美にあふれ、「すばらしい脚本だ」などとも書かれている。
人の映画の感想にケチをつけるなんてヤボなことをやろうとは思わないけれども、わたしは前々から「伏線回収な~んてくだらないことだ」とは思っているわけで、この映画のそういうところはやはり、好きにはなれないのだった。だってこういうのは、一度組み立てたストーリーラインを解体し、時系列をずらしたりすれば、いとも簡単に「伏線回収」された脚本なんか出来てしまうだろう。
それに、この映画の中盤、ミシェルがLineのチャットで見事に騙される過程を、パソコンの画面のアップで延々と見せていくというのは、わたしには「演出」の放棄に思えて、評価する気にならない。だいたい「ジョセフ」のところの展開なんか、けっこう重たい展開だとは思うのだけれども、もう「投げ出しっぱなし」にも思えてしまう(あれはあれでОKかもしれないが)。
せっかく、先日観た『12日の殺人』が良かったので期待したのだったけれども、ちょっと残念なことではあった。