ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『レベッカ』(1940) ダフニ・デュ・モーリア:原作 アルフレッド・ヒッチコック:監督

レベッカ(字幕版)

レベッカ(字幕版)

  • メディア: Prime Video

 原作は同じヒッチコックの『鳥』の原作者でもあるダフニ・デュ・モーリアによるもので、一方で『鳥』のような動物パニックもの(?)を書き、一方でこの『レベッカ』のような「現代のゴシック・ロマン」といえる作品をも書くような作家とはどういう人なんだろうと、彼女の作品を読んでみたい気になるのだった。

 映画は、ヒロイン(ジョーン・フォンテイン)が焼けたマンダレー館をふたたび訪れる「夢」の場面から始まるのだけれども、このシーンでひとつ、マンダレー館の閉ざされた鉄格子の門の、(とてもカメラがすり抜けられるわけもない)格子のあいだをカメラがすり抜けてマンダレー館の敷地に入っていく演出があって、ちょっとおどろいてしまう。それはアントニオーニの『さすらいの二人』のラストで、室内から窓越しに外の風景を撮っていたカメラが少しずつ前進し、鉄格子の窓を抜けて外に出てしまうシーンを思い起こさせられる。短いシーンだけれども、ヒッチコックの創意工夫にうならされるシーンではあった。

 思ったのだけれども、この映画、キューブリックの『シャイニング』を思わせるところがある。この「マンダレー館」は前の女主人のレベッカの魂の宿る建物であり、ヒロインはそのレベッカの「魂」にだんだんと追い詰められていく。そして、そのレベッカの「魂」が乗り移り、マンダレー館に<生命>を与えているのが、屋敷を取り仕切るダンヴァース夫人(ジュディス・アンダーソン)であろう。『シャイニング』でいえばジャック・ニコルソンの役どころだろうけれども、マンダレー館の主人、ヒロインの夫であるマキシム・ド・ウィンター(ローレンス・オリヴィエ)もまた、死せるレベッカの「影」に苦しめられている。
 ヒロインはダンヴァース夫人の有形無形の圧力に苦しめられ(「自殺しなさい!」とまで詰め寄られる)、夫もまた時に精神の均衡を失いヒロインに対して感情的になることもあるが、夫はレベッカの「影」を忘れるためには、無垢な美しさを持つヒロインを必要としていることを、心の奥では理解しているだろう(たんじゅんに考えれば、さっさとマンダレー館を売り払って引っ越ししちゃえばいいだろうと思うのだが)。

 しかし、夫の心を覆う<レベッカの「影」>が、まさに実体を持って表ざた(おもてざた)になる。
 ここからはそれまでと打って変わって第三者を交えての「取調べ」劇となり、マキシムは「レベッカ殺し」で告発されるのか、ということにまでなるのだが、レベッカが死の前日に診察を受けた医師の証言で、まさに「どんでん返し」となる。
 崇拝したレベッカの失墜によって「生きるよすが」を失ったダンヴァース夫人は、レベッカの「魂」の棲まう「マンダレー館」に火を放ち、つまりレベッカと共に燃え尽きてしまうのである(『シャイニング』の原作でも、舞台となったオーヴァールックホテルはラストに爆破され、焼け落ちてしまうのだった)。

 ダンヴァース夫人の威圧的な態度を怖れ、夫のマキシムの時のとつぜんの怒りにもおびえるヒロインは、スクリーンから観た感じでもいつもおどおどしてみえるのだけれども、これはWikipediaをみると、まずはローレンス・オリヴィエが当時の恋人のヴィヴィアン・リーとの共演がかなわなかったことでジョーン・フォンテインに冷たく当たり、そのことに気づいたヒッチコックは「これはヒロインの造形にぴったりだ!」と、スタッフ、キャストの皆に「ジョーン・フォンテインに冷たくするように」というとんでもない指示を出したことにもよるようだ(それでもジョーンは翌1941年にもヒッチコック監督の『断崖』に出演し、この作品でめでたく「アカデミー主演女優賞」を受賞するのだった)。
 そこでわたしが思い出すのはまた『シャイニング』のことで、『シャイニング』撮影時、監督のキューブリックは「それは<パワハラ>だろうが!」という次元でニコルソンの妻役のシェリー・デュヴァルにつらく当たって彼女を精神的に追い込み、その上でジャック・ニコルソンシェリー・デュヴァルの対峙の場面を撮影したということ。映画人の「パワハラ」とは、えげつないことをやるものである。

 しかし映画で描かれるダンヴァース夫人のレベッカへの崇拝ぶりはちょっと異常で、ヒロインをレベッカの衣装室に案内し、そのまま取り置かれたレベッカの衣装を見せるシーン、レベッカの毛皮コートを自分の頬にあてたり、レベッカの下着を手に取って「透けて見えるでしょう」などとヒロインに見せるシーンなど、異常を越えて同性愛的なものを見てしまう。

 映画はマンダレー館の豪華な調度品とセリフ劇をうまく組み合わせているのだけれども、特に後半の「取調べ」段階ではセリフによる説明が先行する感じになってしまう。それだけにこの作品は舞台向きだなあと思ったのだが、じっさいに「ミュージカル」として演出され、日本でも上演されているのだった。しかし、この劇をどうやって「ミュージカル」にしてしまえるのだろうか?