実はこの映画の舞台とされた年代は2026年ということで、来年はそういう意味で「メトロポリス100年」の年なのだ。
映画は当初153分の長さだったが、ドイツ公開から2ヶ月後にアメリカで公開されたときには「あまりに冗長すぎる」と118分に短縮され、以後のドイツでの公開でも、その「短縮版」が上映されることになったという。
1984年になって、音楽家のジョルジオ・モロダーによって、ロックをサウンドトラックとする再編集版が公開されたけれども、このヴァージョンはわずか82分の長さだった。
後年、ブエノスアイレスで「紛失した」と考えられていたフィルムが発見され、それらをもとに2010年に148分のヴァージョンが上映された。わたしが今日観たのも、この148分のものであった。
映画は、フリッツ・ラングが1924年にニューヨークを訪れ、摩天楼に圧倒された体験から生まれたものだということで、ドイツに帰国したラングは妻のテア・フォン・ハルボウにニューヨークの話をし、二人して脚本を完成させ、「SF映画」の先駆的作品となったのだった。先日観たムルナウの『吸血鬼ノスフェラトゥ』が「ホラー映画」の先駆となったように、この時代のドイツ表現主義映画の後世への影響は計り知れぬものがあるようだ。
しかし、この映画を観てみると、「SF映画」というよりも「ディストピア未来映画」というストーリーが強烈で、まさに「SF映画」と思わせられるのは有名な「アンドロイド・マリア」の造形と、地上のメトロポリスの市街、街並みに色濃くあらわされている。
メトロポリスの市街は当時の「キュビズム」的、「未来派」的な要素が反映され、そのディテールには「アール・デコ」的な意匠がある。さらに地下の聖堂、カタコンベにはゴシック様式も認められ、そういう意匠のヴァリエーションも楽しめたと思う。
また、ストーリーの「支配者階級」と「労働者階級」との対比には共産主義思想の影響も感じられるのだが、ラストの「和解」という結末はフリッツ・ラングの案ではなく、当時すでにナチスに傾倒し始めていたテア・フォン・ハルボウによるものだという(フリッツ・ラングはその後テア・フォン・ハルボウと離婚し、アメリカに亡命するわけだけれども)。ちなみに、当時この『メトロポリス』を観たヒトラーは、熱烈な賛辞を贈ったというが。
2026年の未来都市メトロポリス。指導者層は高層ビルのそびえ立つ地上世界に、そして過酷な労働に虐げられる労働者たちは地下に住んでいる。
指導者層が遊び興じている所へ、労働者の子供をつれて女教師マリア(ブリギッテ・ヘルム)が現われた。子供たちに「これが貴方たちの兄弟です」と指導者層を示す彼女に心ひかれたフレーダー(グスタフ・フレーリッヒ)は、今まで行ったことのなかった地下の労働地区へ行ってみる。そこでは労働者たちが機械に追い廻され、虐げられている姿があった。
マリアは労働者たちをカタコンベに集め、世界の構造やバベルの塔のこと、やがて労働者と指導者を結ぶ調停者が現われることなどを説く。これを盗み見していた指導者層のリーダーでフレーダーの父フレーダーセン(アルフレット・アベル)は、科学者ロトワング(ルドルフ・クライン=ロッゲ)に対応策を講じるように命じた。ロトワングはそのときすでにアンドロイドの原型を製作していたのだが、マリアを拉致してアンドロイドの容貌をマリアそっくりに仕上げる。
フレーダーセンの考えはアンドロイド・マリアに労働者の結束を崩させることにあったのだが、実はフレーダーセンにも恨みを抱いていたロトワングはアンドロイド・マリアに労働者を煽動して機械を破壊させ、「メトロポリス」そのものを破壊することを目論んでいたのだった。
アンドロイド・マリアに扇動され、暴徒となって地下の工場へ押し寄せた労働者達は工場を破壊する。地下では水が洪水の如くあふれ出して住宅地区におし寄せ、残されていたおおぜいの子供たちが溺れそうになる。フレーダーは労働者たちを扇動するアンドロイド・マリアはニセモノと見抜き、溺れそうな子供たちを助けようとする。
扇動による行為が自分達の首をも絞めていると気付いた労働者達は子供たちを助け、自分達を扇動したアンドロイド・マリアを糾弾し火あぶりにする。炎の中でアンドロイド・マリアはただのアンドロイドに戻り、労働者達は自分達を扇動していたものの正体を知る。
一方、囚われていた本物のマリアはロトワング宅から逃げ出し、ロトワングに追われながら大聖堂の屋根へと逃げる。そこにフレーダーが駆けつけ、マリアを助けてロトワングを屋根から突き落とすのだった。大聖堂でフレーダーは父フレーダーセンと労働者代表の手を握り、「頭脳と手は、心という仲介役がいなければいけないのです」と言うのだった。
俳優らの中ではやはりまず、マリアを演じたブリギッテ・ヘルムが素晴らしい。マリアとしてのときと、アンドロイド・マリアであるときとの「正反対」の性格を表情を通して演じ分け、どちらのマリアも魅惑的ではあった。劇中でアンドロイド・マリアの「お披露目」としてか、「メトロポリス」の歓楽街「ヨシワラ」でダンスを踊るシーンがあるのだが、この場面での扇情的でエキゾチック、そしてエロティックなダンスには、まさに惹き付けられてしまった。
そして作品中の唯一の「悪役」というべき、ロトワング(ルドルフ・クライン=ロッゲ)の存在感がいい。おそらくは「カリガリ博士」の系譜をひくのであろう、怪異なその悪役ぶりに、まさにこの映画が「ドイツ表現主義」の系譜にあることを思い出させられるのだ。
さらに書き加えれば、俳優ではないが「映画史上もっとも美しいロボット」と言われる「アンドロイド・マリア」の造形こそは、まさに時代を越えた「イコン」となっていると思う。製作したのはヴァルター・シュルツェ=ミッテンドルフという彫刻家らしいが、彼のことはまったくわからない。よく『スター・ウォーズシリーズ』のC-3POを「アンドロイド・マリア」に比べることが多いようだが、それはシアーシャ・ローナンとトランプ大統領を比べるようなものであろう!
街の美術や地下の労働施設の美術などにも眼をひくものがあり、いくつか散見されたトリック撮影も効果的だったと思うのだが、わたしが興味深く見たのは、その地下の工場での労働の様子で、巨大な時計の文字盤のようなモノに労働者が貼りつき、文字盤周囲に並ぶランプの点滅にしたがって時計の針にあたるものを回転、移動させるというような「労働」なのだが、まさに「オートメーション」のなかにおいて、その労働自体がどんな意味を持つのかわからない労働を描いているということで、現代・現在に通じる「人間疎外」された労働のさまをあらわしているようで、「先駆的」とも思うのだった。
わたしも「148分」はいささか冗長と感じもしたのは確かだし、ラストの「解決」も、「そんなもんじゃないだろう」と思ってしまったのも確か。それでもやはり、こうして「想像された世界」を現実に創意工夫によってフィルムに収め、人の原初的な「夢」を記録したことは偉大な業績だ、とは思うのだった。